1940年度の「宮本百合子」──「八大婦人雑誌」の最多執筆者

1.『新女苑』の「百合子先生」

2.掲載禁止

3.「宮本百合子」の復帰

4.1940年度の「宮本百合子」(『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』)

5.考察──その意味するもの

6.『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』での宮本百合子の査定

7.筆名変更問題(“とりあえずの表現者”の二つの顔)──「私は中条百合子で、その核心に宮本ユリをもっている」

 

 小説「貧しき人々の群」(『中央公論』1916年9月号)でデビューした「天才少女」中条百合子(荒木、宮本。1899-1951)は、二年後父に付いて渡米し、ニューヨークのコロンビア大学で学んだ。そして、そこで出会った十五歳年上の荒木茂と結婚し、共に帰国する。だが、夫との関係に苦しむことになる。その百合子の前に湯浅芳子(1896-1990。『愛国婦人』編集者)が現れた。これをきっかけに百合子は離婚し、そして、1927年末、同性のパートナー・芳子とともに革命ロシアへ発ったのである。

 三年後の1930年11月、二人は帰国する。百合子は、1932年1月「日本プロレタリア作家同盟」に加盟し、中心的存在として活動した。年末には機関誌『働く婦人』の編集責任者となり、創刊号の作成にあたった。

 こうした百合子は、治安維持法違反での検挙者が三年間(1931年から33年)で約三万九千人にのぼるという大弾圧の中を生きることになる。32年3月には統一組織である「日本プロレタリア文化連盟」(コップ)が一斉検挙を受け壊滅的状況になり、翌33年2月には作家同盟の小林多喜二が検挙・虐殺された。他方では、共産党の中央委員である佐野・鍋山が獄中から転向声明を出し(6月)、これをきっかけに大量転向が起こった。34年には文化連盟が、35年には共産党が壊滅し、作家同盟は34年に解散した。つまり、「プロレタリア作家」としての百合子の活動は早くも不可能になったのである。

 同時に、百合子は、32年2月、芳子の留守中に家を出て、十歳年下で作家同盟の宮本顕治(1908-2007)との結婚に踏み切っていた。

 結婚後の百合子の生活はすさまじい。二ヵ月に足りない結婚生活の後、四月には百合子が検挙され(4月5日~6月25日、80日拘束)、夫はからくも逃れた。百合子は同年再び検挙された(9月10日~10月15日、一ヶ月強拘束)。1933年12月末にはついに夫が検挙された(結局、政治犯として敗戦まで12年間獄中にあった)。じきに百合子が検挙された(1934年1月23日~6月13日。五ヶ月弱拘束)。その後も、再び検挙された(1935年5月10日~翌年3月27日、11ヶ月弱拘束)[1]。要するに、結婚後の四年間で、百合子に対して四回の検挙が繰り返され、計一年半にわたって百合子は拘束されたのである。

 この弾圧のなかで、百合子は、創作活動と獄中の若き夫の支援を行っていく。

 こうした状況から、戦時下の宮本百合子は、弾圧のためほとんど文章を発表できなかったと思われがちである。だが、実際には、1940年度(同年5月号‐翌年4月号)に限って言えば、宮本百合子は、「八大婦人雑誌」の主要執筆者(四十四名)中、執筆点数が最多なのである(『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』)。

 では、あの「転向」という問題に関わるのだろうか──こうした疑問が浮かんだとしても荒唐無稽とは片付けられない。では、実態はどうだったのであろうか。戦時・戦中の百合子の状況(客観的状況)とその生き方(主観的事情)を探ってみたい[2]

 

 

1.『新女苑』の「百合子先生」

 

 百合子には、「プロレタリア作家」というアイデンティティでは括りきれないもう一つの顔がある。文芸の人、文筆による芸術家である。

 1930年代においても、検挙・拘束、あるいは、発表禁止処分に付されていない時の「宮本百合子」は、『新女苑』をはじめとする女性雑誌(婦人雑誌)に頻繁に登場している。その時の百合子は、愛読者に慕われる「宮本先生」である。

 おそらく、戦中「非転向」で敢然と闘ったという「宮本百合子」像とそぐわないため、従来、この面に関して語られてこなかった。むろん、大きなハンディキャップを背負っての雑誌への登場であり、十全なものとはいえない。だが、だからこそ、百合子を理解しようとすれば、これらの登場がいかなる意味を持つのか、どんな条件下で何をしようとしていたのかを探る必要がある。

 百合子が登場した女性雑誌としては、まず、1937年1月に内山基によって創刊された『新女苑』(実業之日本社)がある[3]。表紙は、小磯良平による、若い女性の肖像画で、都会的で知的な雰囲気を醸し出している。百合子はじきに『新女苑』の常連の書き手となり、7月号から連続して幅広い領域で書く。

 まず、7月号のグラビア(「午後」)に、長谷川時雨、林芙美子、宇野千代、窪川(佐多)稲子らとともに「中条百合子」が登場する。同時に、翻訳「マリア・パシユキルツエフの日記」が掲載された。つづいて、8月号に「私たちの社会生物学」、9月号の「短篇小説」に「築地河岸」が掲載される。

 10月には筆名を「宮本百合子」に変更し、11月号の「女靴の跡」からは「宮本百合子」として登場する。百合子は、獄中にある夫・顕治の提案を容れて、筆名を「中条百合子」から「宮本百合子」に変更したのである。[4]

 12月号では、特集「若き女性に求める教養─先輩諸氏はかく語る─」に、「教養の内容に就て」がある。12月号には、さらにもう一つ、「時局特輯『目覚むる東洋』」に寄稿「祭日ならざる日々─日本女性の覚悟─」が掲載されている。百合子は、「千人針の女のひとたち」「白エプロンに斜(ななめ)襷(だすき)の女のひとたち」が街頭に登場するなどして呼び起こされる感情・「銃後に漲る英雄的(ヒロイツク)な気分」に疑問を呈する。

 

私たちは、人間を切に切に愛する。生命を愛する。その一個たりとも無駄に破壊されることに対して冷淡であり得ない。人間の生みてである女の奥にひそむ母性の感情の深い根はそこにある。現実は、しかし、望むと望まないにかかわらず、ある時の義務としてその生命を捨てることを必要とする。〔中略〕銃後に漲る英雄的(ヒロイツク)な気分の何割かが、避けがたい必要に求められて生命の危険を賭しつつある若い男、あるいは中年の男達の感情へまで切実に迫って行っているであろうか。(全集⑭160)

 

 ここで、百合子は、まず、「生命を愛する」「母性」(「女の奥にひそむ母性の感情」)について論じている。それは、家の中にとどまらない、社会の様々な人々(窮状にある人々)に目を向け、“世話をする”ことである。こうした「母性」(いわば、社会的な母性)とは、儒学の「民の父母」性とも無縁ではないが、これは統治者の徳とされるものである。百合子の場合は、自分(女性)が、こうした社会的な眼(現実直視・愛)を持つことである[5]

 百合子が──こうした「母性」の延長で出会った──「無産階級」の思想を経ても、これを手放していないことは注目される。つまり、現状を直視する、押しつぶされそうになっている「小さき者」へ手を添え、生かす(死なせない・見捨てない)という姿勢は変わらないのである。その意味で、百合子は、生命を愛する「母性」の思想家である。それは、白い割烹着を着て国家と陸軍の手のひらで踊っている、あの「母性」に対する鋭い批判となる。

 さらに、1938年新年号には、「若い婦人のための書棚」(書評)が掲載されている。パール・バックの「大地」等、マリグリット・オオドゥウの「孤児マリイ」(堀口大学訳)である。バックの選集を読んでみて、「特に今日の日本の読者には是非熟読されるべき」と感じるとして、バックが、「中国の民衆が外国人に自分たちの生活をかきまはされることを欲してもゐないし、必要としてもゐない事情をはつきり描き出してゐる」としている。そして、日本には「たつた一人のバックのやうな作家が生まれなかつたといふことは何故であろうか」と問い、「理解とそして愛。この二つのものが私達人間に人間を描いた芸術をつくらせるのである」と結んでいる(全集⑭169)。また、他方では、短篇「二人ゐるとき」が、片岡鉄平・堀辰雄と並んで、豊富な挿絵付きで掲載されている。

 つまり、『新女苑』1938年新年号の特色の一つは、「宮本百合子」の本格的登場なのである[6]。なかでも、「若い婦人のための書棚」は、若い女性を対象に本を紹介する書評欄(「読書の頁」)にあたるもので、それを宮本百合子が引き受ける意味は大きい。いうなれば、「天才少女」と謳われ、ニューヨークのコロンビア大学、さらに、革命後のロシアで存分に吸収した、世界水準の教養が、惜しみなく読者に提供される見通しとなった。その意味では、最適の人材であり、おそらく内山基の的確な人選である。

 

2.掲載禁止

 

 ところが、書評欄(Book Reviews)の担当は一回で中断する。内務省警保局図書課長が出版関係者を集めた年末の懇談会で、特定の執筆者(七名)の原稿を掲載しないよう内示し、その中に「宮本百合子」が含まれていたからである[7]

 百合子は、理由も、解除の見込みも不明な発表禁止状態に、女性では一人叩き込まれたのである。日記には、次のようにある(全集24)。

 

こういう人たちに書くなという権限のないのは御承知のとおりであるから、挙国一致の精神に賛成して、諸君自発的に云々という形で執筆禁止をした。〔中略〕私たちにとって全く新しき年はじまる。忘れがたき年越し。一九三三年の暮と本年と。(1938年1月1日)

やはり念頭をはなれぬのはいかに生活すべきかということである。勉強の方法とテーマとはあまりある。それにはこまらない。だが、どうして金をとってゆくか。この問題の解決は容易でない。又生活の形をどうするかということも。〔後略〕(同2日)[8]

情を知ってトク名でも何でものせたら編輯者をやるというのだから。(同3日)

 

 他方、読者はこの中断に敏感に反応した。「宮本先生の(Book Reviews)どうなつたのですか大変楽しみにしてゐましたのよ」、「大事な所をとられた様です」などの声が寄せられた。内山は、「ブックレヴュ、一寸鼻を折られてくさつたもので併し復活致します」と答えている(読者投稿欄「ペンルーム」、『新女苑』1938年5月号)。[9]

 百合子は、書き手であるばかりか、読み手として優れており、さらに、本を読むという行為を媒介に、女性、とくに若い女性と共振できる力があったと言えるであろう。

 なお、この処分に百合子が入っていた理由は明らかではないが、『新女苑』での文脈で見ると、「宮本百合子」の名が定着し、さらに、(Book Reviews)によっておそらく爆発的人気が出る──その「母性」観も広がる──その直前で止めたということになる。つまり、この内示は、言論抑圧一般だけでなく、百合子に関しては『新女苑』をめぐる具体的な文脈に沿っており、したがって、それだけの打撃が、本人及び多方面にあったのである。

 なお、この苦境で、百合子は、『婦人公論』(1938年四月号)に掲載された三宅花圃(田辺龍子)の随筆「思い出の人々」に触発されて、樋口一葉に関する「清風徐ろに吹来つて」を書き、さらに、近代日本の文学の歴史を書く方向へ向かう。後年、現状に立ち向かう「勇気の源」を求めて歴史に向かったと、次のように振り返っている。

 

日本の社会生活と文学とが日一日と窮屈で息づまる状態に追いこまれていたその頃、大体近代の日本文学はどんな苦境とたたかいつづけて当時に到っていたのか、その努力、その矛盾の諸要因をつきとめたくなった。人生と文学とを愛すこころに歴史をうらづけて、それを勇気の源にしたかった。(『婦人と文学』[10]「前がき」、1947年3月)(全集⑫214)

 

 その成果が、「『藪の鶯』このかた」として発表されるのは、1939年7月号の『改造』になる。

 

3.「宮本百合子」の復帰

 

 理由のない掲載禁止下におかれた「宮本百合子」の復帰は、大学新聞を別にすれば、『文芸』(1939年3月号)、『婦人公論』(同年4月号)、『中央公論』(同年5月号)と徐々に始まっていく[11]

 『文芸』は随筆「寒の梅」である。検閲を通過した時、『文芸』の編集長小川五郎は、「ゲンコウイマパスシタ」と百合子に電報を打ったのである(百合子「日記」、同年2月6日)。[12]『中央公論』は、「清風徐ろに吹来つて」を冒頭に置いた評論「人の姿」である(全集、補遺60)。さらに、「『藪の鶯』このかた」が、『改造』7月号に発表された[13]

 なお、「近代の日本文学」を整理する上で、野上弥生子の『真知子』に対する百合子の批判は容赦ない(「一つ頁の上に──昭和初頭の婦人作家──」『文芸』1940年3月号)。百合子は、モスクワでこれを読んでいて、「生々しい不満」[14]を感じていたのである。

 『新女苑』への復帰は、掲載禁止から二年近く後の1939年11月号になる。

同号では「十八番(おはこ)料理集」と、「新しい結婚 これから結婚する人の心持」を寄稿している。後者は、帯刀貞代の「新しい恋愛 恋愛の常識化」と対になっており、百合子は、日中戦争開始以来の「刻々の推移の中で、人間らしい生活を見失ふまいとする若い男女の結合」について論じている。

 さらに、1940年新年号では、対談会「女の幸福」(神近市子・宮本百合子)に出ている。3月号では、座談会「女性と文化を語る」(木々高太郎・奥むめを・宮本百合子)に出ている。5月号では、特集「友を語る」(他は、坪田譲治・今日出海)で、宮本は、「なつかしき仲間」として、日本女子大時代の網野菊、さらに、野上弥生子、湯浅芳子について語っている。

 こうして座談会に出たあと、1940年7月号でいよいよ『新女苑』書評欄への宮本が再登場する(12月号まで続く)。

 7月号では、「若い婦人の著書二つ(読書の頁)」として、大迫倫子『娘時代』・野沢富美子『煉瓦女工』、8月号では、「夏休みの読書(読書の頁)─科学の常識のため─」として、レイモント・コフマン『科学の学校』・中谷宇吉郎『雪』、9月号では、パール・バック『この心の誇り』、10月号では、二冊の詩集、すなわち、竹内てるよ『静かなる愛』・永瀬清子『諸国の天女』、11月号では、「若き精神の成長を描く文学(読書の頁)」として、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』『青春の彷徨』、12月号では、「世代の価値(読書の頁)─世界と日本の文化史の知識─」として、東西の文化史の諸説などを紹介している。なお、「読書の頁」執筆者一覧によれば、歴代の担当者で、女性は宮本一人である。[15]

 さらに、百合子の評論を集めた『明日への精神』(実業之日本社、1940年9月)が刊行された。そこには、「若い婦人の為の書棚」の題で、家族論に関連する書評がある。百合子は、まず、「家族制度全集」(叢書)に触れ、次に、民法改正要綱(1937年)について批評し、さらに、「家族」の歴史に関連して、L. H.モルガンの『古代社会』、アウグスト・ベーベルの『婦人論』等を挙げているのである(全集⑭162-172)。

 

4.1940年度の「宮本百合子」(『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』)

 

 宮本百合子のこうした登場を、1940年5月号から翌年4月号までの「八大婦人雑誌」の主要執筆者を調査した情報局の『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』で見ると、以下のようになる(同冊子、五一‐五三頁)。

 

○宮本百合子

婦人公論   一五、 八        若い娘の倫理       評論

〃      一五、一二   女性と文化を語る     岸田国士との対談

〃      一五、一二   新しい美をつくる心    感想

新女苑    一五、 五   なつかしき仲間      随筆

〃      一五、  七   若い婦人の著書二つ    雑文

〃      一五、  八   夏休みの読書       〃

〃      一五、  九   ブックレヴユー      〃   

〃      一五、 一○   静かなる愛と諸国の天使(ママ)  雑文

〃      一五 、 一一   若き精神の成長を描く文学 〃

〃      一五、 一二   世代の価値        〃

〃      一五、 七   夜の若葉         小説

〃      一五、一○   新体制を語る       座談

 婦人画報  一五、 四   山の彼方は        評論

 〃     一五、六    女の歴史、そこにある判断と

 〃            責任のすがた

 〃    一五、 八   幸福の感覚        〃

 婦人画報 一五、一○   ものわかりのよさ     〃

〃     一五、一二   来年           随筆

      一六、 二   異性の友情        〃

 婦人朝日 一六、 四   悲痛への尊敬       〃

  〃        〃       雪の後                   小説

 新女苑    一六、  四          杉子                                     〃

 婦人画報 一六、 一      身についた可能の発見          随筆

(論調)「若い娘の倫理」=今の若い娘さんは嬢(ママ)さんと呼ばれるのをきらふ。其処に彼女の若さが自分の生活領域の限定も見て、其の代名詞たる「お嬢さん」に反発するのである。若い娘は此の反撥を生かして、新しい時代への認識を深め、目先だけの利巧を捨てゝ、明日の時代へ前進するを倫理とすべきである。

  

 以上のように、1940年度、宮本は、婦人雑誌に頻繁に登場している[16]

 一般に宮本百合子は弾圧でほとんど発表できなかったのではないかと思われがちだが、1940年度に限って言えば、宮本は、「八大婦人雑誌」の主要執筆者(四十四名)中、執筆点数が最多なのである。すなわち、同調査によると、「八大婦人雑誌」に登場する婦人執筆者は百七十五名、うち一年に三篇以上執筆したのが四十四名であり、その中で最も多いのが宮本百合子の22点であり、これに、羽仁もと子と山川菊栄の19点、林芙美子と吉屋信子の16点が続く(四‐七頁)。

 なお、宮本が、1940年度に相当数を発表していることは、「日記 一九四○年」(全集25所収)でも確認できる(十月一日開始)。これは、執筆、及び、原稿・原稿料授受に関する覚え書きとみられ、「八大婦人雑誌」の他にも相当数書いている[17]。そのうち「八大婦人雑誌」関係を抜き出すと次のようになる。

 十月一日「『新女苑』20枚「若き精神の成長を描く作品」」、二十日「『婦公』 四枚」、三十日「『新女苑』「世代の価値」文化史 25枚」、「『婦人画報』「来年」 22枚」、十二月八日「○『婦人画報』 七枚」、十二日「『婦画』十二月号 46.00」である。

 代金としては、評論集『明日への精神』に対する支払いが最も大きい。十月四日に、「○実日[18]、310.00もって来る(550のうち200すみ)あとの中から四三部代さしひいた。」とある。家賃33とあるから、第一線の婦人執筆者に相当するだけの収入があったといって過言ではない。

 同時に、こうした記載の欄外に、「六十八信」(十月五日)から始まって、夫への通信が記されているのである。

 

5.考察──その意味するもの

 

 1940年度のこうした宮本百合子の数多くの登場は何を意味するのだろうか。また、百合子自身はどんな考えで行動していたのだろうか。

 まず、第一に、宮本百合子の登場の仕方は、山川菊栄、さらに野上弥生子とも異なる。

 山川菊栄の場合、『新女苑』、『婦人公論』、そして『読売新聞』(コラム「女の立場から」)という名のあるメディアに(連載を持つなりして)定期的に登場するのは、それぞれ、1940年12月号、1940年12月号、1941年1月末までである。(ただし、『読売新聞』のコラムは、「番(サフ)紅花(ラン)」名で同年6月まで続けられる。)山川菊栄の『新女苑』と『婦人公論』への定期的登場が1940年12月号までということは、10月末までは執筆したが、それ以降は書いていないということである。

 野上弥生子も、また、山川とは異なる立場とはいえ、極めて慎重に振る舞っている。『読売新聞』のコラム「女の立場から」は、幾つかの要素を比較考量して「こゝいらが陣の引きどころならんか」(「日記」1936年2月6日、Ⅱ⑤27)と降りている。『中央公論』四月号に「若い学生に与ふる手紙」を寄稿することは、「沢山云ふべき事があつてそれが云へない」(「日記」1938年3月4日)という理由で断っている。また、『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』によれば、同時期の「八大婦人雑誌」への野上の登場は、『婦人公論』1940年4月‐8月号「旅雁記」(連載、旅行記。〔実際には12月号まで〕)、6月号「夫婦の道」(評論)のみである。

 つまり、それぞれ、1941年に入ってから定期的登場はしていない。(ただし、野上による無署名の『婦人公論』巻頭言は、同年12月号まで続けられる。)

 以上のように、編集者・内山基を直撃した状況の変化(直接には鈴木庫三率いる「思想戦」)に、いうなれば社会主義者・山川菊栄、リベラリスト・野上弥生子は敏感に反応し、慎重に行動している。では、共産主義者・宮本百合子も同様に動いたかというと、そうではない。意外なことに、宮本に大きな変化は見られないのである。

 

 したがって、第二に、この頃盛んに行われた「新体制」──「時局」に合わせた国民組織の再編成──をめぐる議論に、ある程度関わることになる。

 

 「鈴木少佐」(陸軍情報部)

 『婦人朝日』(1940年10月号)では、座談会「新体制を語る──鈴木少佐を囲んで」(宮本百合子・金子しげり・深尾須磨子・桜木俊晃〔編集部〕、8月17日開催)が組織されている。

 ここで、宮本は、「新体制」の理念で、「賃金問題なども」「要求してよいわけですね」と、鈴木庫三(陸軍情報部)に念を押している。

 

女の人なんか平和になればまた家庭に還るのだからといふ考へで賃金問題なども永続的な計画でやらない、さういふ営利的な会社に対しては、新しい社会生活に即応するといふ意味で一つの力として要求してよいわけですね[19]

 

 岸田国士(大政翼賛会文化部長)

 つづいて、『婦人公論』(1940年12月号)で、対談会「女性と文化を語る」(宮本百合子・岸田国士)が組織されている。岸田は、大政翼賛会の文化部長である。

 この中で、宮本は、「アパートの独身者には炭を配給しない」という報道を取り上げて、「アパートに独身で暮している人」は、「殆んどその大部分は真面目に働いている若い女でしょう、若い男でしょう」、「そう云う若い人が、働いて、勤め先きから帰って来ても〔中略〕炭がない」、「アパート住居の独身者なるが故に配給されない。これは気候の寒さよりも人生の寒さでしょう」。「若い男女を大事にして、愛して、出来るだけ困難に耐えさせてやろうと云う情愛、そう云うものがないことがその一言に現れているようで、ひどいことと思うのですよ」と述べている(全集別巻二、211-212)。

 また、「お砂糖もそうです。〔中略〕お前達は一人者だから、炭もやらない、砂糖も少ししかやらないと云うのは、なんだかねえ……。」とつぶやく。

 このように、百合子は、「アパートに独身で暮している人」「一人者」という、「新体制」運動下でも隅に追いやられ、炭や砂糖の供給からさえ外されがちな独身者の立場に立って、その声を代弁しているのである。

 なお、この対談の最後に「宮本附記」(〔一九四○年十二月〕)として、「アパート住居の独身者への炭の配給は、ガスのないところには配給されることになりました」とある。おそらく、百合子の発言によって、炭が配給されるようになったのである。

 ちなみに、山川菊栄は、対談では、有馬頼寧との対談「新しき生活の方向」(『婦人公論』1940年10月号)、柳田国男との対談「主婦の歴史」(『新女苑』1940年11月号)に出ているが、それ以後は出ていない。

 

 第三に、宮本は、目の前の読者(「若い女の人」「若い男女」)を大事にし、できるならば、人生の先輩として、非常に困難な時代を生きる若い人々の助言者でありたいと願っていたのである。神近市子との対談会「女の幸福」では、次のように語る(『新女苑』1940年新年号。前年11月22日開催)。

 

(宮本)若い女の人といふものは、謂はゞ初めての勇気を失ふモーメントに出会ふわけですね。われ\/は何回目かの勇気を沮喪(そそう)する場面に打(ぶ)つ突(つ)かるのだけれども、若い女の人は第一回、第二回目ぐらゐでせう。それだから、われ\/古狼が生きてゐる値打は何かといへば、今年初めて旅をする狼に、あの場合には何がある、この場合には何がある、ずゐぶん痛いけれども罠からかうして逃げる、そんなことを語つて行く愛情に何か自分達の経験の意義があるわけね。(全集別巻二、119)

(神近)その自信はまだ失つてゐないつもりだけれども、本当に今では女が幸福になるのは何時のことやらというやうに、いと遙かなものを感ぜられるのです。かういふ時代はなかつた。前はもう少し皆希望を持つてゐました。

 

 この時期、読者は、こうした話を聞きたかったのではないだろうか。助言とは、その時、必要なものである。別の言い方をすれば、働く女がいればそこへ出て行くのが山川菊栄であったとすれば、助言を求める若い男女がいれば、宮本百合子はそこへ出て行って語ったと思われる。

 

 さらに、第四に、断続的な拘束や執筆禁止措置の渦中の人として、「書ける間に出来るだけ書く」という立場をとっていたものとみられる。自筆年譜では、1939年の箇所に、「こうして理由なしに禁止された作品発表は、まだはっきりわけが分らぬ中にそろそろ印刷されはじめた。私は書ける間に出来るだけ書くという心持をもった。」と記されている(全集、別冊、65-66)。

 「拘束・発表禁止・発表可能」を生きる「宮本百合子」は、いつ何時、拘束や発表禁止下に置かれるとも限らない。野上弥生子はもとより、山川菊栄と比べても、選択や、戦略・戦術の余地が極めて小さい。そこから、いわば開き直って、発表できる時にできるだけ発表しておくという姿勢をとっていたものと考えられる。

 

6.『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』での宮本百合子の査定

 

 この第四の点に関連して、『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』では「宮本百合子」に関して次のように記されている。なお、全体として、宮本に関しては、記載量が多く、見解に揺れが見える。

 まず、本人に関する論評で、「c. 評論家」中の、「(ハ)純粋評論家」(九名)中の一人に挙げられ、その九名の中でも、「過去の経歴」や結婚等から、警戒を要する「問題の四人」──山川菊栄、神近市子、宮本百合子、帯刀貞代──の一人とされている。

 

終りに宮本百合子は前記両人と同じく、中條百合子の名を以つて知られ、よし理論の立役者でないにせよ、最も華々しく文芸を通して実際運動に携はり、最後迄、踏みとゞまつた一人である。〔中略〕元来、作家としてプロ文壇に登場した人であつたが、早くから天才少女として知られてゐただけに、評論に、随筆に、批評に、其の存在は、思想の貧困を喞(かこ)つ女流言論界に今尚異彩を放つてゐる。此の多方面な才能は現時の婦人雑誌界に於ける彼女の地位を不動のものとし、極めて便利な、重宝なる人としたのであるが、それだけに婦人層に与へる影響力は、其の大半が無批判を極める層であつてみれば、心理的にも大きく、彼女の才能のためには残念ではあるが、自重が望ましい。尤も、〔後略〕(五九頁)

 

 「次に、市川、金子、阿部、奥、野上、村岡、河崎、伊福部、神近、山川、宮本等十一人に関する雑誌社側の意見を聴いて見やう。」として、次のように記されている(六五‐六六頁)。

 

○宮本百合子

(A社)=此の人はいろいろ\/な点から最も目立つ人で、それだけに検討もされて来た人だ。此の人が婦人雑誌に量的に言つて一番よく書いてゐる事は、云はゞ便利な人で、どのテーマに対しても熱心に考へて呉れると言ふ点である。〔中略〕私の方では良い意味の、今の時代に其の償(つぐない)と言つた意味でも、大いに働いて貰い度いと思ふ人である。〔中略〕氏の今活動してゐる面は啓蒙的な意味の時代認識の役割で、昔の経歴だけで、抹殺してやるのは国家のためにもよろしくないと思ふ。此の点考へて欲しい。

(B社)=大体、A社と同意見である。

(C社)=C社としては殆んど使はない人であるがいろ\/な点から見て、転向者の内で一番問題にして良い人である。C社は敬遠主義をとつてゐる。〔後略〕

(E社)=非常に常識面が広く、何の問題をとり上げても一応はこなして見せる不思議な人である。であるから、性格も複雑で、読者には奇妙なばかりに、魅力がある。

 

 「抹殺してやるのは国家のためにもよろしくない」(A社)と、「転向者の内で一番問題にして良い人」(C社)とでは、方向が逆である。A 社は、おそらく、実業之日本社であろう。

 様々な題材で大いに書いている、だが、「転向者」の一人であるだけに微妙な問題がある、とはいえ、読者の人気は高い──この内のどこに基準を定めたらよいのかと、全体としては、やや困惑気味である。

 最後の「四、適材適所」──七部門について、「之に指導者と見做される婦人に等級をつけて配分」したもの──では、宮本百合子を、「婦人時局指導の一般問題」「女性一般の文化教養問題」「女性の結婚と恋愛問題」「働く婦人の一般問題」で、C群に入れている(七一‐七三頁)。

 要するに、少なくともこの調査では、一方で、「自重が望ましい」という句を出しておきながら、他方で、「抹殺してやるのは国家のためにもよろしくない」という出版社の意見を載せ、最後に、七部門中四部門で、C群の──「転向者」で能力がある──婦人執筆者と査定している。つまり、「宮本百合子」に関しては、抑える/使うの双方向が考えられるが、当面、使ってもよいということになる。

 

7.筆名変更問題(“とりあえずの表現者”の二つの顔)──「私は中条百合子で、その核心に宮本ユリをもっている」

 

 以上をまとめると、戦時の百合子は、いうなれば“とりあえずの表現者”である。本人は「書ける間に出来るだけ書く」つもりでいる、他方、統制する側は「新体制」づくりに(使えるなら)使うつもりでいるのである。

 このように百合子は、政治的迫害に曝される身(本人、及び、長期政治犯の同志的妻として)でありながら、同時に、“文芸の人”であることを手放さない。むろん両者は繋がっているのであるが、この二つの顔の落差が百合子の特徴である。

 

 「宮本百合子」への筆名変更問題

 ちなみに、筆名を「宮本百合子」に変更する方が本当だという顕治の提案に対して、百合子は、この問題が「ああいう下らぬ混雑につれて結びついて出ている、思いつかれている、そのことでは、率直に云って大変くやしかった。そして、何だか腹立たしかった」と表明したうえで、「私は、可笑しい表現だけれども、中条百合子で、その核心に宮本ユリをもっていて、携えていて、その微妙、活発な有機的関係によって相互的に各面が豊饒になりつつある〔後略〕」のだと説明している(1937年2月17日付書簡)。

 

第三のおくりもの。名のこと。私は昨夜もいろいろ考えたけれど、まだはっきり心がきまりません。単なるジャーナリズムの習慣でしょうか? 果して。〔中略〕(⑲143)

その方が本当というのは、特に私たちの場合、何だか私の感情の、これまで生き貫いて来た、これから生き貫こうとしている感情の全面の張りにぴったりしない。私は、可笑しい表現だけれども、中条百合子で、その核心に宮本ユリをもっていて、携えていて、その微妙、活発な有機的関係によって相互的に各面が豊饒になりつつあること、強靱になりつつあることの自覚を高めているのです。(同144)。

 

 百合子は、百合子自身の「感情の全面の張り」、言い換えれば、「中条百合子」と「宮本ユリ」の「微妙、活発な有機的関係」の観点から、よくよく考えてみなければ筆名変更問題に返事できないと言っているのである[20]

 結局、百合子は、「宮本百合子」を名乗ることを決断する。ただし、豊饒な「中条百合子」を手放すわけではない。おそらく、百合子の中では、社会で“生きるものへの愛”として両者は繋がっていたのである。[21]

 なお、「宮本百合子」への筆名変更は、「宮本百合子」(獄中の「宮本顕治」の同志的妻)の「ジャーナリズム」への公然たる登場を意味するものとして、統制側の重大関心事であったはずである。すなわち、「中条百合子」の「宮本百合子」への改名は、百合子にさらなる負荷を課すものであった。内務省警保局図書課による1937年末の掲載禁止リストに百合子が入っていたのは、改名問題にも関係すると思われる。

 

 「中条百合子」でもあるところの「宮本百合子」

 このように百合子は、「中条百合子」(文芸の人)と、いわば「宮本百合子」(「プロレタリア作家」で長期政治犯の同志的妻)という二つの顔を、自分でも社会的にも持っていたのだが、筆名を「宮本百合子」に変更することによって、その名の下に両者が合体・混淆することになったといえる。たとえば、『新女苑』の読者のいう「宮本先生」は、じつは前者なのである。

 もっとも、表現者としての百合子は、たとえ「宮本百合子」を名乗ったからといって、常に“あの「宮本百合子」”(人々に共有される幻想)を引き受ける必要はないのかもしれない。百合子自身は、元来、文芸の人(言葉による芸術家)なのであるから。

他方では、百合子は、あらゆる圧力に抗し、いうなれば様々な離婚強要にも頑として応じないで獄中の顕治を支えていた。つまり、もし、「転向」が、様々な形の弾圧を避けるためのものであるとしたら、百合子は、(「転向」どころか)正面から弾圧を迎え撃っていたのである。したがって、後者の現実から目をそらさなければ、前者は臨機応変に対応すればよい──「書ける間に出来るだけ書く」でよい、いつ「書けなく」なるかわからないのだから(「書かない」はそもそも選択肢としての前提を欠いている)といえるのかもしれない。

 とはいえ、最も苛酷な状況の、焦点の人物──標的──でありながら、本人の意識・対応がぴたりとそこに照準を合わせたものになっていない、ということにもなりかねない。また、双方──本人・統制側──の思惑の違いで成り立つ、こうした「宮本百合子」の「ジャーナリズム」での登場が、微妙なものになる──統制側から勝手な読み込みが可能である──のは否めない。

 ともかく、百合子は、「書ける間に出来るだけ書」いていたのである。

 

 1941年2月26日、内閣情報局は執筆禁止者名簿(全集、別冊、73)を内示し、その中には宮本百合子も入っている。とはいえ、百合子への影響は必ずしも明らかではない。たしかに、5月号以降「八大婦人雑誌」への登場はない。が、その他へは相当数執筆している(同前、75-76)。したがって、「八大婦人雑誌」が「宮本百合子」の起用を避けたということに止まるのかもしれない。百合子自身は、引き続き「書ける間に出来るだけ書く」という姿勢をとっていたものとみられる。さらに、この後になって、情報局(第一部)は『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』(同年7月)を「部外秘」として配布するのである。つまり、2月26日の内示の効果が明確でないのは、その推進者であるとみられる鈴木庫三の影響力が揺らぎ出すことと無縁ではないのではないだろうか。

 

 12月9日、太平洋戦争突入の翌日、百合子は検挙された。理由は不明であり、結婚後五度目になる。百合子の持つ多面性・多様性を、「宮本百合子」に対する弾圧が、強制的に一面に収斂させたのである[22]

 

[1] 全集、別冊、「年譜」を参照。

[2] 『宮本百合子全集』(新日本出版社、1979-1986年)のたとえば第一巻を「全集①」と略記し、その後に頁数を記す。また、『野上彌生子全集』(岩波書店)の、たとえば第一期(1980-1982年)第一巻を「Ⅰ①」、第二期(同、1986-1991年)第一巻を「Ⅱ①」と略記し、その後に頁数を記す。

[3] なお、創刊号に野上弥生子の「若き友への手紙」(Ⅰ⑲)が掲載されている。野上の日記には、「新女苑のいやな気のすゝまない原稿をやつと脱稿」とある(1936年11月17日、Ⅱ⑤217)。

[4] 全集、別冊、「年譜」を参照。

[5] もっとも、これにはパターナリズムの女性版、したがって、温情主義という批判が可能であるかも知れないが。

[6] なお、野上弥生子も、巻頭言「若き友へ」(Ⅰ⑲)を寄せている。「新女苑の執筆を控えて」と日記にある(1937年11月26日、Ⅱ⑤468)。

[7]宮本百合子「一九三七年十二月二十七日の警保局図書課のジャーナリストとの懇談会の結果」(全集⑭所収)。

[8] 同時に、この日、獄中の顕治へのこの年の通信を始める。「第一信。こういう内容の第一信とはMも予期していなかったであろう。」(全集24、768)。

[9] 『新女苑』1938年5月号「ペンルーム」。前掲入江寿賀子「『新女苑』考」、101頁。

[10] 『婦人と文学──近代日本の婦人作家──』(実業の日本社、1947年10月)。

[11]全集、別冊、「年譜」、66頁を参照。

[12]『婦人と文学』(新日本出版社、1982年)の小林栄子「解説」(308頁)を参照。

[13]なお、「『藪の鶯』このかた」は、1939年6月4日に書き始め、6日に書き終えている(全集24、818)。

[14]「婦人と文学(初出稿)」、全集、補遺、161頁。

[15]宮本の前が河上徹太郎(一年間余)、宮本の後が亀井勝一郎(一年間余)である。前掲入江論文を参照。

[16] なお、『新女苑』に入れられている「夜の若葉」(小説)と「新体制を語る」(座談)は、『新女苑』ではなく、『婦人朝日』である。拙稿「内閣情報局による「婦人執筆者」の査定」を参照。

[17]執筆物の全体像については、全集別冊「年譜」70-75頁を参照。

[18]実業之日本社。

[19]なお、この座談会は、「年譜」(全集、別冊、七二頁)に記載がなく、全集未収録である。佐藤卓己『言論統制──情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中央公論新社、2004年)、362-365頁を参照されたい。

[20] なお、顕治からの手紙(2月9日付)には次のようにあった。

「青鞜派時代、個人主義的放恣が旧道徳に対するものであるかのような一面があったが、今日の新しい時代は、新しい健全なモラルを求める。夫婦形態が、一夫一婦として確立され得るのは、この歴史性においてなのだから。〔中略〕市民的無規律・無思慮と、新しい生活人の日常のモラル──夫として妻として男として女として──の差別は明確にされるべきなのだ。新しい人々と放恣が同一物であるかのような世の誤解には、これらの混乱を持ち込んだ、誤れる新しさ──一頃のコロンタイズム・友愛結婚、便宜的家政婦的結婚──が大きな責任を持って居る。」宮本顕治・宮本百合子『十二年の手紙』(筑摩書房、1950年)、56頁。

顕治は百合子に、「青鞜派」的な「個人主義的放恣」「市民的無規律・無思慮」と決別し、また、「誤れる新しさ──一頃のコロンタイズム・友愛結婚、便宜的家政婦的結婚」に陥ることなく、「新しい健全なモラル」として確立された「一夫一婦」の夫婦を貫くこと、そして、その証として「宮本百合子」を名乗ることを求めたと思われる。

[21] ちなみに、百合子は、しばしば、「人道主義者」から「共産主義者」へ「成長」、つまり、あたかも、低いものから高いものへ「成長」したかのように語られるが、このように、従来のものを容易に手放さないのである。 

[22]本稿は、拙稿「遅れてきた人間・ついに現れた人──野上彌生子と宮本百合子の交わり(『法学志林』第110巻第3号、2013年2月)」の一部に、若干の変更を加えたものである。

© 2017 Sumiko Sekiguchi