歴史家としての山川菊栄──『武家の女性』(1943年)から『覚書 幕末の水戸藩』(1974年)へ

はじめに──── 奇妙な「歴史家」山川菊栄

1歴史家としての山川菊栄──その方法

21940(昭和15)年──佐藤中陵『山海庶品』、柳田国男、『村の秋と豚』

3「幕末の水戸」のありのままの姿を描く──戦時下で

4「幕末の水戸」のありのままの姿を描く──史料を失って

終わりに

 

はじめに ──── 奇妙な「歴史家」山川菊栄 

 

 山川菊栄の執筆物のうち、“歴史物”としては、『武家の女性』(1943年)、『おんな二代の記』(1956年)、『覚書 幕末の水戸藩』(1974年)等があげられる。『おんな二代の記』(刊行時は『女二代の記』)は、菊栄の母・千世の人生と菊栄自身の半生という「おんな二代」の歴史を通して、明治・大正・昭和(敗戦直後まで)という時代を物語るものである。『武家の女性』の関心は、千世・菊栄の前の世代の人々、すなわち、“幕末の・水戸藩”の、武家及びその周辺の女性に向けられている。これを男性にまで広げて「幕末の水戸」を描いたのが、『覚書 幕末の水戸藩』である。なお、『わが住む村』(1943年)にも、幕末維新を相模国村岡村で経験した人々の声がある。

 このように、菊栄は、自分が出会った人々から“昔話”を聴く。そして、自分たち──自分に接点がある人々──が体験したことを元に、歴史的文脈を構築するのである。人々の声・語りを歴史的文脈の中におくといってもよい。

 こうした菊栄は、人々の話をよく聴く、優れた歴史家であるといえる。同時に、歴史を描く対象をそれ以外に広げない、つまり、自分に関わりのあること──自分が、直接・間接に見聞きしたこと──しか書かない、奇妙な「歴史家」である。

このように、山川菊栄の歴史叙述について語ろうとすると、はたして菊栄はいかなる「歴史家」なのか、そもそも「歴史を描く」とはどういう営みなのか(いかなる営みであり得るのか)、菊栄についてはどうなのかという根源的な問いに直面させられるのである。

 

1 歴史家としての山川菊栄──その方法

 

 菊栄は幾つかの“歴史物”を物しながら、自分の歴史叙述の方法についてまとまったものは書いていない。そこで、語った断片を集めて、菊栄の方法を探ってみよう。

 

祖父延寿

 

 祖父延寿は公刊した著書のほかに、天保十四年から、明治三十九年に亡くなる数日前までの六十余年間の日記、幕末の公私の記録を筆写した時事記四部、当時の学者や志士、親戚門人の私信や詩稿等を多く遺しました。近年私はそれらの書類を整理しながら目を通している間に、そういう資料や、故老の話や家に伝わる話をもとにし、すでに発表されている文献をも参考として、幕末の水戸のありのままの姿を描いてみたいと思い立ち、(『武家の女性』「はしがき」。昭和十八年一月)

 

 そして、こう続ける。

 

 筆をつけかけたままで果さずにいるところへ、今度『武家の女性』出版のお話がありましたので、そのうちの、女性に関する部分を書いてみることにしました。

 

 約三十年後の『覚書 幕末の水戸藩』の「あとがき」には次のようにある。

 

 祖父の残した反古(ほご)の中に、天保一四年からの日記、維新に近く、時事急をつげたことのおふれや書簡などを筆写した資料、「時事記」三冊、その他個人の手紙類がいろいろありましたが、そういうものは未整理のまま、どこかにはいっていたのを、昭和一七年、戦争のため、兄の一家が疎開するときの大片づけの際発見して、いらないものだから屑屋(くずや)にやるというのを私がもらっておきました。(『覚書 幕末の水戸藩』「あとがき。昭和四九年五月)

 

 そして、こう続ける。

 手紙の中には、「青山延于にあてた藤田幽谷、高橋旦庵、立原翠軒などのもの」や、「桜田事件の首謀者高橋多一郎の、延寿あての長い手紙二通」(「高橋が学校奉行をしていたころ、弘道館のやり方についての意見を述べたもの」)もあった。「書籍と手紙は大かた茨城県立図書館に寄附」したが、「青山文庫」(「青山本家、延光の家から出た多くの図書、資料類を一括」したもの)は、「全部戦災にかかったと聞きました」。

 わずかに、延光が、「安政四年八月から同六月末まで、江戸で烈公の小姓をしていた一人息子の勇へ書き送った私信を、勇がきれいな行書で製本しておいたのがあり」、「私はそれを一部書き写しましたが、この本の中に引用してあるのはそれです。」

 なお、ここに登場するのは、幕末の水戸藩と水戸学の中枢の人脈である。立原翠軒は、光圀以来の『大日本史』編纂を担う史館総裁であった。青山延于と藤田幽谷はその門下で、後には史館総裁をともにつとめた。延于は、『大日本史』編纂が停滞するなかで、簡略版『皇朝史略』を著すという決断を下した。そして、幽谷の息子の東湖は烈公(徳川斉昭)の参謀役を務め、他方、延于の長男で後継者が延光である。菊栄の祖父延寿はその弟である。

 

 菊栄は、さらに続ける。

 

 この本はそんな風に子供のころから聞きかじった母の思いで話、親戚故老のこぼれ話、虫くいだらけの反古などの中からひろい集めてできた幕末水戸藩のイメージとでもいいましょうか。

 

 つまり、全体としては次のように述べている。

 1942(昭和17)年、兄一家の疎開の際、延寿の日記(六十余年間)、文書・手紙類が出てきたので、もらっておいた。それを眺めていて、「そういう資料や、故老の話や家に伝わる話をもとに」して、「幕末の水戸のありのままの姿を描いてみたい」と思い立った。「筆をつけかけたままで果さずに」いたが、『武家の女性』執筆の話が来たので、「そのうちの、女性に関する部分を書いてみる」ことにした。

 その後、日記、手紙類は戦災で焼失してしまった。わずかに、延光が息子の勇へ書き送った私信を勇が製本しておいたのを、自分が一部書き写しておいたものがあったので、これを引用して、母・親戚故老の「話」、他の「資料」等と合わせて「幕末の水戸藩」を描くことにした。

 以上のように、山川菊栄は、「水戸といえばテロを連想させる」(『覚書 幕末の水戸藩』「あとがき」)状況で、「幕末の水戸のありのままの姿」(『武家の女性』)を描こうとした。新たな「幕末水戸藩のイメージ」(「あとがき」)とでも言えるようなものを。

 

「幕末の水戸」

 言い換えれば、史料や証言(話)をもとに、「幕末の水戸」イメージを書き換えることをめざしたのである。

 それは、“当事者に語らせる”、当事者の側からの歴史叙述である。そして、その一人に、六十余年間の日記とともに立ち現れたおじいさん・延寿の姿があった。

 注目されるのは、一方では、たとえば、『覚書 幕末の水戸藩』では「烈公」(斉昭)にまで相当入り込んで分析しているあたりであり、同様に、これだけの事態を──幾重もの殺し合いに転がり落ちていくにも関わらず──“悪者”をつくることなく、公平に描こうとしている点である。

 その意味で、真っ向から“敵”に向かうような、社会運動における文筆活動での姿勢とは別であると言ってよいであろう。ただし、同時に、その書き出しにみられるように、武家の都合からのご都合主義的な歴史とは違う(──いうなれば、対抗的な歴史叙述である)と表明しているのであるが。

 たまたま手に入った祖父の日記・手紙類から幕末の水戸藩(自分〔たち〕)の歴史を書くという営みを思い立った時から、菊栄は、あえて言えば、社会主義運動家とは相対的に別の、“もう一つの人格”を持ったのではないだろうか。

 

2 1940(昭和15)年──佐藤中陵『山海庶品』、柳田国男、『村の秋と豚』

 

 菊栄の歴史叙述への関心は、じつは、「祖父の残した反古(ほご)」を手にした時より早い。

 月刊誌『新女苑』(1940年新年号)の附録『新女苑年鑑』掲載の「現代百婦人録」[1]には、アンケートに答えたものであろう、「今後の方針」に関して次のようにある。

 

大分前から近代、特に幕末から明治にかけての日本の経済史に興味をもち、ぼつ/\読みにかゝつてゐます。できたら自分でも調べてみたいと考へてゐます。今はまだ一年生の気持で将来のこの仕事をたのしみにしてゐます。

 

 むろん、この「幕末から明治にかけての日本の経済史」への関心とは、明治維新の歴史的性格を含む日本資本主義論争の延長上にあったはずである。この論争で、明治維新を絶対主義の成立とみた講座派(『日本資本主義発展史講座』に拠る)に対して、山川均・大内兵衛などの労農派は、幕末維新期の経済発展を高く評価し、したがって、当面の目標は社会主義革命である、と主張したのである。言い換えれば、当面の目標・闘争形態と、現状分析、そして、その元としての幕末維新期の学問的評価(日本の資本主義の評価)が不可分に結びついていた。このように、「幕末から明治にかけての日本の経済史」は、日本資本主義論争(つまりは講座派と労農派の対立)の土台にある問題であったのである。

 

柳田国男

 菊栄は、この年、柳田国男と出会う。9月7日、雑誌『新女苑』の企画で柳田と山川が対談し、これが、11月号(10月1日発売)に対談会「主婦の歴史」として掲載されるのである。

 対談で菊栄は、柳田の『木綿以前のこと』を「たいへん面白いと思つて拝見致しました」というところから話を始めている。『木綿以前の事』(創元社、1939年5月)とは、「木綿以前の事」(1924年)をはじめとする柳田の寄稿や講演を集めて刊行されたものである。人々の話や、歌や俳諧、食べ物や着る物などから歴史を組み立てるという方法がとられている。とすれば、菊栄が対談に応じたのは、こうした歴史の描き方について著者から話を聞いてみたかったためかもしれない。 

 

佐藤中陵『山海庶品』

 じつは、菊栄はこの夏、母千世の(最後の)水戸への墓参に付き添って行って、佐藤中陵の『山海(せんがい)庶品(しょぼん)』を借りてきていたとみられる。

 千世の墓参と菊栄の付き添いは、1935(昭和10)年5月、1937(昭和12)年10月に続くものである。1937年には、親戚筋の佐藤庄三郎宅に泊まり、維新の頃の様々な話を聴いた。1940(昭和15)年も庄三郎宅に泊まり、しかも、中陵の孫養子である庄三郎から『山海庶品』を借りてきた。(なお、『覚書 幕末の水戸藩』〔岩波書店、1974年〕所収の論考「佐藤中陵と『山海庶品』」の「追記」には、「一九三九年」に母の郷里水戸への最後の墓参のおともをしたと記されているが、本文には「昭和一五年、母が最後の墓参のとき」[2]とあり、実際には一九四○年であるとみられる。)

 佐藤中陵は、江戸後期の本草学者で、水戸徳川家(文公)の招請に応えて家臣となり、小石川御殿の長屋で、のちに斉昭の時代になると水戸に移されて、『山海庶品』(様々な動植物の絵に説明を付したもの)の著述を続けた。百冊以上に達する大著になったとみられるが、維新の時、水戸講道館が戦火にあい、遺ったのは七冊だけであった[3]。菊栄は、母(千世)に付き添っての水戸訪問の際に、「佐藤庄三郎翁」(「庄翁」)からよく話を聴いているが、この人物こそ、中陵が養子にした延昌(千世の父青山延寿の兄)の養子、すなわち、佐藤中陵の孫養子であったのである(維新時十九歳)。

 

『村の秋と豚』

 1941年1月には、菊栄の随筆集『村の秋と豚』(宮越太陽堂書房)が出版にこぎつけた。末尾には、「昭和十五年」と記された論考「佐藤中陵と『山海庶品』」が掲載されている[4]

 これを読んだ柳田から手紙が来た(日付不明)。「『村の秋と豚』はたいそうおもしろく拝見しました。〔中略〕なによりも羨ましく思ひますのは御文章の自由かつ明晰なことです。及びがたいと存じました」とある。

 柳田は、菊栄の文章に目を見張ったのである。同書には、養豚の先駆者であった(「いはゝ生涯を豚に捧げたも同様だつた」)父について触れた文章「村の秋と豚」(「昭和十五年」)をはじめとする「身辺雑記」の章、鎌倉にいた時に銭湯で見た、息子に怒鳴り散らす母親を描いた文章「銭湯で」(「大正十五年」)をはじめとする「母と子」の章など、簡潔でユーモアをたたえた(同時に社会批評を孕んだ)文章が収められている。

 おそらくこの後、菊栄は柳田を訪ねた。菊栄の日記[5]の1941年5月10日の条には、「柳田国男氏を訪う」とある。やがて、柳田の推薦で、「女性叢書」(三国書房)中の一冊として、『武家の女性』と『わが住む村』が出版されることになるのである[6]

 

3「幕末の水戸」のありのままの姿を描く──戦時下で

 

「幕末の水戸」のありのままの姿を描く

 戦時下で、菊栄は「幕末の水戸のありのままの姿を描」という企てに着手する。すでに見たように、「祖父の残した反古(ほご)」を「兄の一家が疎開するときの大片づけの際発見して」がもらっておいたのは、1942年である。

 菊栄の日記には、1942年の5月3日に「水戸書類整理ほゞ完了」という記入がある。この「水戸書類整理」がその「反古(ほご)」の整理であるとみられる。

 5月6日、朝には突如として空襲警報、夜には警戒警報という中で、「夜幕末の水戸執筆にか丶る。二百字にて十三枚」とある。つまり、執筆の滑り出しは好調である。

 ところが、「連日せんたく、ぬひもの等々に忙しく、執筆の暇なし」(5月10日)。

 それでも、「少し原稿をかく」(12日)。同時に、「インキ沢山仕入れる」(13日)、「振作氏より日本儒学史送附 早速よむ」(15日)と準備に余念もない。

 だが、「午后少しひるね、三食の仕末、炊事、ぬひもの アイロンかけ等に昼間は執筆の暇なし、夜は疲れて身体綿の如し、健康も仕事も犠牲として家事に没頭、生活苦と共に暗澹たる思ひをなすこと、日夜、」(17日)、「午后ひるね 四時からふろたき 炊事にて暮れる」(18日)と続く。家事が重くのしかかっているのである。しかも、結核に侵された体であるから、身に応える。

それでも、「毎日午前二時か三時頃から目ざめ少し執筆」(同)する。

 だが、1942年の日記への執筆の記入は、5月18日で止まる。「幕末の水戸」を書くという企ては、「筆をつけかけたままで果さずに」いた(『武家の女性』「はしがき」)のではないだろうか。

 そこへ、8月25日、『武家の女性』の執筆依頼が舞い込んでくる。「三国書房主人来訪。武家の女性執筆の約成る。九月一杯、二百字五百枚。」である。じつに、成約後一ヶ月余で10万字の原稿を渡す約束をしている。

 他方で、9月7日には、「『サルウィン』訳了。けふは十八ページ、二百字にて六十五枚のレコード也。夜十二時に成る。肉体的精神的にこの夏ほど苦しかったことなし。」とある。つまり、菊栄は、(おそらく地獄のような夏を経た)この日、一日で13000字訳して翻訳を仕上げたと満足しているのである。もし、「『サルウィン』訳了」後の9月8日に「武家の女性」執筆に入ったとすれば、月末まで23日。とすると、「武家の女性」は三週間余で書き上げたことになるのである。

 柳田の後押しがあったとはいえ、出版は必ずしも容易ではなかったようだ。『おんな二代の記』には、「太平洋戦争に入ってから、柳田国男先生監修の女性叢書の中に『武家の女性』と『わが住む村』の二種を加えられましたが、情報局の出版許可を得ることが容易でなく、なんども足を運んで下さったそうです」とある[7]

 なかでも『武家の女性』(1943年3月刊)に続く『わが住む村』(同年12月刊)は、戦時の国の農業施策への現場からの批判という性格を持っているから、出版許可は容易に下りなかったはずである。ちなみに、同書には、「今から千二百年前、天平十三年に」と述べる際に、その直前に「それより千年近くもたった後」[8]という神武紀元の数え方が入っている箇所がある(つまり、1940年が神武紀元2600年だという数え方に賛同していることになる)[9]が、これは挿入された(入れさせられた)とみるべきではないだろうか。

 

4「幕末の水戸」のありのままの姿を描く──史料を失って

 

 戦後、「幕末の水戸のありのままの姿を描」くという企ては、「女性に関する部分を書いてみ」た(『武家の女性』)ところで止まったままであった。菊栄は、『茨城県史研究』に、「『皇朝史略』をめぐって」(第1号〔1965年3月〕)を書く。その後数年して「青山延寿『遊常北日記』」(第12号〔1968年11月〕)を書き、さらに数年して「幕末の水戸藩」を連載する(第21号〔1971年12月〕から第28号〔1974年3月〕まで)。そして、これらが、『覚書 幕末の水戸藩』(岩波書店、1974年)として刊行される。

 むろん、これは、『武家の女性』以来の「幕末の水戸のありのままの姿を描」くという企てに、敗戦とその後の二十年近くの活動──社会での激務(労働省婦人少年局長への就任〔1947~1951年〕)、社会主義協会の設立(1951年)等の社会党での活動、『婦人のこえ』刊行(1953~1961年)・「婦人問題懇話会」設立(1962年)等の女性運動の組織化──を経た後にようやく取り組めた(取り組んだ)ことを意味する。同時に、描く条件はすでに大きく異なっていた。延寿の文書の大半が失われていたのである。

 菊栄と長年交流があり、二十二年余同居していた岡部雅子さん(息子・振作の妻である美代の姉の長女)によれば、菊栄は、数箱にのぼる延寿の日記・手紙、書籍類を自分が茨城県立図書館に預けて、結果として戦火で失ってしまったことを悔いていたという[10]

 ここからすれば、『覚書 幕末の水戸藩』とは、いまや永遠に失われてしまった延寿の文書類から立ち上るイメージを、自分の力で──史料の大半が焼失した後に──なんとかして再現しようとしたものであったのではないだろうか。

 

終わりに

 

 『おんな二代の記』が自分たち──自分と、とくに母──の歴史であったとすれば、『覚書 幕末の水戸藩』は、自分たち──水戸の一族、関係者(母は入っているが自分は直接入っていない)──の歴史である。

 菊栄が出会った頃、九十歳余であった佐藤庄三郎翁をはじめ、まだ生きている様々な人々(故老)の語る声をたどって、いかなる「時代」であったのかを描く。(なお、聴いた話を元に描くという手法は、『わが住む村』で身につけたと考えられる。)

つまり、当事者として「時代」を証言させる。──「御一新」という大変動を体験した・巻き込まれた人々、具体的には、幕末の水戸藩(関係)という時・空を生きた人々に。そして、それを元に、時代(イメージ)を紡ぎ出す。

 『おんな二代の記』では、「明治はいい時代だった、すばらしかったとかいう人」に対して、私(たち)にとってはそうではなかった、と、子ども・少女の菊栄に声を与えることによって描き出すことに成功した。同じ時を生きていても、ジェンダー、階層などによって「時代」観は異なるということでもある。

 『覚書 幕末の水戸藩』では、「水戸といえばテロを連想させる」中で、延寿の「学校」を起点に人々の具体的な有様を描いた。そして、様々な声を照合させ、文書史料とできる限り照合して、一大交響曲に仕上げた。

 この途方もない作業には、あまりにも多くの人々の貴重な生が、偶然に左右され、膨大な死に帰結した──これに遭遇した筆者の責任感が動力となっていると思われる。つまり、「歴史家」であることを引き受けた山川菊栄という存在を、そこに見ることができるのではないだろうか。

 

 以上のように、菊栄は、明治維新という歴史的瞬間に立ち会った、ないしは、巻き込まれた「水戸藩」近辺の人々からその声を聴き取ろうとした。その手法は当事者に話を聴くというものであり、この点で菊栄はオーラル・ヒストリーの先駆者であるといってよい。

同時に、そこには、抵抗すべき“正史”が想定されていたのではないだろうか。すなわち、「幕末から明治にかけての日本の経済史」への関心を出発点に、のちにオーラル・ヒストリーとして確立されていく手法を用いての歴史叙述は、“自分たちの経験”をもって、既存の歴史叙述(マルクス主義系、及び、敗戦後花開いた「女性史」[11]を含む)に対置するものであったはずである。それが歴史叙述をする山川菊栄の立ち位置(ポジショナリティ)であり、だからこそ、「歴史家」山川菊栄は、“自分たちの経験”以上には手を広げなかったのではないだろうか。

(2017年5月記)

 

[1] 女性知識人(98人)をリストアップし、1生年月日、2現住所、3出身学校、4現在の仕事にいたる動機・経歴・今後の方針などが挙げられている。なお、「最近に於ける婦人執筆者に関する調査」(情報局第一部、1941年7月)はこれに似たところがあり、ここからヒントを得て作成したということも考えられる。

[2] 『覚書 幕末の水戸藩』(岩波文庫、1991年)、三六六頁。

[3]「中陵が必要あって自宅に持ち帰ったままにしてあった」(岩波文庫版、二○二頁)ものだけが焼失を免れた。

[4] なお、『おんな二代の記』に、「『村の秋と豚』『婦人と世相』の二種は出版社がつぶれたり不誠実だったりで一銭にもならず」とある。前掲『おんな二代の記』、三○七頁。

[5]山川菊栄記念会の方々のご厚意で確認させていただいた。

[6] なお、「佐藤中陵と『山海庶品』」が『採集と飼育』(1942年7月)に発表されている。外崎光広・岡部雅子編『山川菊栄の航跡──「私の運動史」と著作目録』(ドメス出版、1979年)、一六二頁。これは「佐藤中陵と『山海庶品』」(『豚と秋の村』所収)に手を入れたものと考えられるから、『覚書 幕末の水戸藩』所収の「佐藤中陵と『山海庶品』」(『豚と秋の村』所収の「佐藤中陵と『山海庶品』」をより平易、かつ、詳しくしたもの)がそれにあたるであろう。

[7] 前掲『おんな二代の記』、三○七頁。

[8] 『わが住む村』(岩波文庫、1983年)、四五頁。

[9] 山川菊栄連続読書会(後述)ので加納実紀代氏の指摘。

[10] 拙稿「自己史を通して時代を証言する──『おんな二代の記』を中心に」、『山川菊栄が描いた歴史──山川菊栄生誕125周年記念シンポジウム記録集』(山川菊栄記念会、2016年1月)。シンポジウムに向けて開催された山川菊栄連続読書会(2015年)での談。

[11] なかでも、「井上女性史」と呼ばれて一世を風靡した、井上清『日本女性史』(1949年)。

「井上女性史」の少なくとも一部が恣意的であることに関して、景山英子に肩入れする形で岸田俊子の「転向」を示唆したことが挙げられる。拙著『良妻賢母主義から外れた人々──湘煙・らいてう・漱石』(みすず書房、2014年)一四五-一四七頁を参照。山川菊栄は、景山英子と『妾の半生涯』に対して重大な疑義を出し続けた。同上、三○六-三○八頁。

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