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「女流評論家」野上弥生子、戦時・戦中・戦後

──『婦人公論』巻頭言と、『日本婦人』創刊号で示した「新しき婦道」

1.「女流評論家」野上弥生子──『婦人公論』巻頭言

2.「新しき婦道」(『日本婦人』創刊号、1942年11月刊)

3.「種々の意味」から「なんでもオーライに」

 

 野上弥生子(やえこ)(小手川ヤヱ、1885-1985)は、『迷路』『秀吉と利休』『森』などの大作を著した小説家である。

 同時に、ある時期、第一線の「女流評論家」として活躍した人物である。

 じつは、『婦人公論』(中央公論社)の「題言」(巻頭言。無署名)を、戦時下、すなわち1937年9月号から1941年12月号まで──ちょうど日中戦争勃発直前から太平洋戦争突入直前まで──引き受けたのは、野上弥生子に他ならない。つまり、匿名とはいえ、言論人としてぎりぎりまで抵抗したのである。

 ところが、太平洋戦争に突入すると、「大日本婦人会」の機関誌『日本婦人』の創刊号(1942年11月刊)で、着物をモンペに着替えて、家から出て「隣組や町会の事業」や工場勤務をする(勤労奉仕に参加する)ようを女性たちに呼びかけた(「新しき婦道」)。

 これは、いったい何なのであろうか。あまりにもみごとな「転向」なのであろうか。

 しかも、それだけではない。この三年半後には、つまり、敗戦後には、『婦人公論』の「再生第一号」(1946年4月号)の巻頭文(「政治への開眼──若き友へ──」)で、「女の有権者が男よりも三百万近くも多い今度の選挙」での女のはじめての選挙権行使の重大性を指摘したのである。野上は、「婦人参政権より鰯(いわし)一匹」なる標語が掲げられている地区もあるようだけれども、「自分たちの参政権の正しい使ひ方で、鰯一匹は鮪(まぐろ)のさしみにも、乃至鯛(たい)一匹にも、てんぷらにも、鰻(うなぎ)の蒲焼にも変じ得る」と、飢えた女性たちに向かってすばらしい説得をしてみせたのである。

 このように、弥生子は、太平洋戦争突入/敗戦・占領という大転換を挟む数年間で、方向の異なる二つの行動──戦争動員に応えること/餓えと混乱から脱出するための投票──を呼びかけたのである。これは何を意味するのであろうか。要するに、弥生子は、太平洋戦争中は戦争動員に協力して、敗戦後は口をぬぐって「平和」を唱えた、ということになるのだろうか。

 以上のように、野上弥生子は、約十年間のうちに、いうなれば、三変転している。なかでも、戦時・戦中にかけて、どのような条件で、どう考えて、どんな行動をとったのかを、『婦人公論』巻頭言と「新しき婦道」(『日本婦人』創刊号)を中心に考察する[1]

 

1.「女流評論家」野上弥生子──『婦人公論』巻頭言

 

小説家

 野上弥生子は、ほぼ八十年間、現役の小説家として日々書き続けた。

 高等小学校を出て臼杵(うすき)(大分県)から上京し、明治女学校(巣鴨庚申塚)に入り、普通科・高等科六年間の教育を受けた。なじみのなかった英語がほとんど第二言語となっている環境で必死に勉強し、ようやく卒業した時には日本で第一級の「才媛」になっていた。なにしろ1906年(明治39年)に高等科を卒業したのは、同学年で弥生子一人だったのである。

 小説を書き始め、夫(豊一郎)のツテを頼ってその師・夏目漱石から学ぼうとした。こうして、女性の文筆家を生みださんとした明治女学校と『女学雑誌』の熱気から生まれ、さらに、女も男子同様、小説を書けるはずだという漱石の見通し[2]に後押しされて、漱石急逝後も長い道のりを一人歩いてきたのである。

 野上の創作活動の特徴の一つは、「女」の見方・知識に縛られない、人間に普遍的なものを求めるという姿勢である。これがある時期から顕著になり、なかでも小説『海神丸』(1922年)ではほぼ男から成る世界を対象に描いた。つまり、世間に順応して「女」という枠に自らを狭めるのではなく、あくまで人間一般を対象とした上で、特定の状況での女や男を扱うという姿勢を堅持したのである。同様に、「日本」に限られない、普遍的なものを志向し、具体的には「西洋」の人文的知見を貪欲に吸収した。要するに、女の小説家(芸術家)をめざした野上は、「女流」と括られることを強く警戒し、同様に、「日本」という枠も突破しようとしていたのである。「日本の女流」からは、むろん、離れていた。

 

女流評論家

 同時に、第一線の「女流評論家」でもあった。

 「女流評論家第一線を動員」と宣伝された、1935年9月に始まる『読売新聞』のコラム「女の立場から」(朝刊「婦人面」、連日)には、岡本かの子・山川菊栄・富本一枝・神近市子・茅野雅子とともに毎週連載を持った[3]

 ただし、野上は、(発表の場には事欠かないからであろうが)あまりにも不自由だと半年弱で降りてしまった。日記(1936年2月6日)によると、この日、読売新聞から電話があって、相沢三郎中佐のことを書いたのを、他の原稿にかえてくれと言われたので、「あれがわるければもう止めるからといふ返事をする」。「相沢三郎中佐」とは、陸軍「統制派」の中心である永田鉄山(軍務局長)を陸軍省の執務室で斬殺した(1935年8月12日)人物である。そして、こう続ける。

 

毎月六十円の定収入はおしくない事はない。しかし毎週こゝろに満足されるやうな原稿を書く事は容易ではない上に、斯うして干渉を受けてその度に書き直すのはあまりに威信を傷け過ぎる。いづれにしても何年とつゞくものでもないものを、金が欲しさになんでも云ひなりになると見られるのも不快である。こゝいらが陣の引きどころならんかと思はれる。(Ⅱ⑤27[4]

 

 この点では、このコラムとこれに連続するコラムを、1941年1月末まで書き続け、さらに、「番(サ)紅花(フラン)」名で同年6月まで書き続けた[5]山川菊栄と対照的である。野上と違って山川は、自覚的な社会運動家であり、同時に、この「定収入」に一家の生活がかかっていたのである。

 要するに、野上は、大正から昭和にかけて登場し、文筆活動でマス・メディアを通じて影響力を持った一連の女性言論人の一人であり、その中でも、安定した基盤をもった社会的信用の高い人物なのである。同性の先達として、多くの女性が生き方を参照する女性でもあった。

 

『婦人公論』の「題言」(巻頭言)

 野上弥生子がそれぞれの時期に人々に向かって書いた文章は、数限りない。なかでも、『婦人公論』(中央公論社)の「題言」(巻頭言、無署名)を、1937年9月号から1941年6月号まで書いた人物であるとみられる(欧米旅行に出た1939年度〔1月~12月〕は除く)。

 1937年6月11日の「日記」には、「午前婦公の湯川氏来訪。昨夜ちよつと来度(きた)いやうに云つてゐた。なに用事かと思つたら婦人公論の巻頭語を書いてほしいと云ふ。めんどうだと考へたが引き受ける」(Ⅱ⑤361)とある。

 ところが、そこへ日中戦争が勃発する。弥生子は「題言」で、日中戦争突入・戦火拡大への反対を慎重に表現していくのである。 

 1938年1月号には、「それにつけても私たちはいかに思ひの外なる一年を送つたことであろう」とある。

 年が明けると宮本百合子の来訪をうけた(「日記」1938年1月11日)。百合子は、前年末に原稿掲載差し止めになったのである。

 

まことに困難な時代が来た。もう少し前までは懐疑が良心的であつた。今はわづかに黙つてゐることが良心的だ。否、終に強制の沈黙が来たのである。(Ⅱ⑤505)

 

 「懐疑が良心的」とは、戦争や資本主義に疑問を呈する、つまり、共産主義運動などに関わることであろう。だが、「終に強制の沈黙が来た」、つまり、そうした言論はもはや許されない、それどころか、「黙つてゐることが良心的」とさえいえる、饒舌家たちの時代がきた、ということである。

 だが、時代状況に対するこうした判断にもかかわらず、野上が、たんに沈黙するのではなく──「強制の沈黙」に抗すべく──巻頭言を書き続けたことは注目に値する。映画の「試写で見た上海」について、つまり、日本の上海爆撃について暗に触れながら、同時に、東京等が都市爆撃の対象になる可能性も示唆するのである。

 

そこに荒れ狂うた火は天から降つた焔である。祖国の空軍に信頼しきつてゐる私たちは、どんな場合にも私たちの頭上に火焔の雨が降り注ぐやうなことがあるとは夢にも思はない。しかし万に一つの手違ひは、如何に周到堅固な計画にも生ずるものである。(1938年4月号)。(Ⅰ⑲419)

 

 このあと夫・豊一郎にイギリスで能について講義をする話が持ち上がった。身辺が不安定になってきたこともあり、弥生子は思いきって同行することにした。1938年10月1日、神戸港からイギリスへ向かって出発し、一年余り後に、第二次大戦勃発の最中、アメリカ経由で帰国した(1939年11月18日)。なお、のちの山川菊栄の談話から、1939年の1月号から9月号は山川によると推定されている[6]

 巻頭言を再開した弥生子は、物資の欠乏、それと同時に、若い男性の不在による結婚難についても述べる。 

 

米がない、石炭がない、味噌がない、玉子がない、炭がない、マッチさへない、と、この頃のお台所はないもの尽しで悲鳴をあげてゐる。これを見て、周章(あわ)てて救済と調節が企てられてゐるが、しかしこれ等の物資は急に消滅したのではない。姿を隠さなければならない経済的理由があつて失くなつたのであり、またあつても市場に現はれないのである。(1940年2月号)。(同431)

 

 内乱以来スペインの男女の人口には非常な差を生じ、男一人に対して女二十人と聞いて驚いたが、現在の日本はそれどころではなく、内地にある若い男と娘たちの比例は一対四十七と伝へられる。(同年5月号)(同427)

 

 さらに、次のように書く。

 

私たちは常に現実を凝視しなければならない。それが好ましいものであるにせよ、また好ましからざるものにせよ、有るがまゝの現実から眼を逸らすのは卑怯であり、危険である。〔中略〕/しかしあまりに異常な現実に出遭ふと、人は正しい見方を失ひ、その情勢に引きずられて考へ、急がうとして焦慮する。目下企てられてゐる国家的な仕事の中にも、斯かる恨みが多いらしく感じられる。(同年8月号)(Ⅰ⑲433)

 

 巻頭言は無署名であったが、そのほとんどは、『藤』(甲鳥書林、1941年7月刊)に収められた(「断章」、Ⅰ⑲所収)。なお、ごく一部収録されてないもの(1941年の一部)があり、それについては個々の検討が必要である。

 

ぎりぎりの巻頭言

 1941年5月になると、野上は身に危険が及びかねないことを自覚する。百合子が訪れた日の日記(5月26日)には次のようにある。

 

夕方宮本さん。夜十時まで。/公論はだいぶもんだいの雑誌らしい。書くのが少々いやになつた。中河与一夫妻のことや、情報部の鈴木少佐のおそろしい話をきく。クハバラ、クハバラ。(Ⅱ⑦334)

 

 これは、情報局と中央公論社との懇談会(2月26日)で、鈴木庫三(情報官)が嶋中雄作(社長)に向かって、「そういう中央公論社は、たゞいまからでもぶつつぶしてみせる!」と叫んだ件についてであろう。宮本は、「情報部の鈴木少佐」について、この件で認識を新たにしたものとみられる。野上の方は、『婦人公論』の「題言」を書いている身である。

 にもかかわらず、「日記」には、7月27日、8月25日、10月15日に「題言」を執筆した旨書かれている。つまり、この後、9月号、10月号、12月号、おそらく11月号も含めて、野上の執筆とみられるのである[7]

 巻頭言には、次のような言葉が散りばめられている(Ⅱ29所収)。

「馴れがいかに人間の目を鈍くするかが怖ろしくなる。」(9月号)、「また今更らしく愛国心がどうの、国家への忠誠がどうのと囃し立てる必要のない日本に生れ、住んでゐるためであろう。」(10月号)。

 こうした言い回し、いうなれば「戦時下の文法」は、山川菊栄の述懐──「検閲官にシッポをつかませないために駆使した、さまざまな言いまわしや反語、かけた言葉のあや」[8]──を想起させる。ただし、野上は、はるかに安定した立場に立っているためか、大胆である。

 11月号にはこうある。

 

〔前略〕下駄の鼻緒が半月ともたなかつたり、子供の靴下が一日で切れたりする〔中略〕これは単に洋服地や、鼻緒や、靴下の問題ではない。もつと大事な、もつと根本的な政治的信頼にまで拡げて考へられることではあるまいか。私たちはどんな困難でも、苦痛でも乗り越えて行く覚悟はもつてゐる。同時にもたせて貰いたいのは、それが「丈夫な困難」で、「丈夫な苦痛」だと云ふ自信である。

 

 「どんな困難でも、苦痛でも乗り越えて行く覚悟」はあるが、それが大「丈夫な困難」で大「丈夫な苦痛」であるという安心感、すなわち、政治への信頼を持たせてもらいたいということである。12月号はこうである。

 

〔前略〕或る一流の大会社の口頭諮問に呼び出された学生は、まづ何をさしおいても儲けることを考へない人間は、うちの会社には要らんと、のつけに云ひ渡された一言で、幻滅に突き落とされたと語る。〔中略〕その一流会社の委員の如きは、滅私奉公が叫ばれ、それ故にこそ研究し残した学業にも未練をとめず、潔よく会社に飛びこんで総力戦の職場に着かうとしてゐる若者の心意を無残に踏みにじるものではあるまいか。且つ就職の後間もなく彼等は兵役の義務に服し、満蒙の守備にも、支那の戦場にも赴くのである。遠い征地の聖戦に携わりながらその言葉を思ひ出す時の彼等を想像すると、なにか慄然とする。

 

 「滅私奉公」「総力戦」「聖戦」を掲げながら、「まづ何をさしおいても儲ける」ために、若者を戦場に送っているだけではないか、ということである。最後に、こう言い放つ。

 

 あゝ、しかし若者たちよ、撓るむ(ママ)な、勇気を出せ。いかなる場合にも理想を捨てるな。旧時代の分らず屋は、自分たちより先きに死んで行くのだと云ふことを忘れるな。(Ⅱ29、83)

 

 そして、これを最後に筆をおいたのである(10月15日執筆、16日発送)。

 ちなみに、山川菊栄は、『婦人公論』に1940年12月号まではほぼ定期的に登場するが、1941年は5月号と12月号のみであり、それが最後となる。つまり、非常時及び戦時において、山川と野上が『婦人公論』を支えていたのだが、山川が引いた後は、野上が一人で『婦人公論』を支えていたのである。

 以上のように、野上弥生子は、1937年9月号を出発点に、欧米旅行中の1939年を除き、おそらく1941年12月号まで『婦人公論』の「題言」を書いたのである(計40篇)。(おそらく、このような野上であったからこそ、太平洋戦争突入と敗戦の後、『婦人公論』の「再生第一号」の巻頭文を依頼されたのであろう。)

 

 だが、ふり返ってみれば、太平洋戦争中を比較的平穏に生ききった──少なくとも表面上は──山川菊栄に比べ、野上弥生子は、『日本婦人』に「新しい婦道」を執筆する等の、それまでの姿勢と大きく異なる行為をすることになる。

これはいったい何を意味するのだろうか。つまり、野上の本意なのだろうか。たとえば、その時は心からそう思って(熱誠)、あるいはまた、名誉などに惹かれて(見返り)、率先して「旗振り」をしたのだろうか。あるいは、心ならずも協力せざるを得なかった──たとえば何らかの不利益を恐れて──のだろうか。つまり、野上は、どんな状況で、どんな判断をして、これを書いたのであろうか。

 むろん、このことは、方向の異なる二つの寄稿、すなわち「新しい婦道」と「政治への開眼──若き友へ」の関係、要するに、野上は、戦中は戦争体制に協力して、敗戦後、口をぬぐって「平和」を唱えたことになるのかという問題と直結する。

 なお、『日本婦人』創刊号上での題名は「婦道」であるが、野上は明らかに「新しき婦道」を論じているので、本稿では「新しき婦道」で統一することにする。

2.「新しき婦道」(『日本婦人』創刊号、1942年11月刊)

 

大日本婦人会と『日本婦人』

 『日本婦人』とは、大日本婦人会の機関誌である。大日本婦人会は、任意加盟の婦人団体──愛国婦人会(愛婦)、大日本国防婦人会(国婦)、大日本聯合婦人会(聯婦)──を統合して、1942年2月に創立された。同会は、「満二十歳未満の未婚の者を除く日本婦人」を会員とする、つまり、二十歳以上の「日本婦人」の全員加盟(ただし既婚者は全員)を旨とするものである。

 愛国婦人会(愛婦)は、1901年に結成され、下田歌子が長年運営してきたもので、機関誌『愛国婦人』を持っていた。その後、『青鞜』で世に出た山田わかが加わって、毎号、巻頭文を書いて論陣を張った。名望婦人を先頭とした婦人の組織化という色彩が強く、内務省の管轄下にある。これに対して、1932年、割烹着で大阪の町に繰り出して出征兵士の見送りをしたことに始まるのが、(大日本)国防婦人会(国婦)である。じきに、陸軍と結びつき、出征兵士の見送りや「英霊の出迎え」をする動員部隊として機能し始める。こうして、急速に増大する国防婦人会、伝統と社会的地位を誇る愛国婦人会、さらに、文部省の指導で結成された聯合婦人会(聯婦)等が並び立った。相互の対立(なかでも国婦と愛婦の対立)と混乱がとりざたされ、1941年6月、これらを統合して、新婦人団体(大日本婦人会)を結成する(翌年2月)ことが閣議決定された。

 この大日本婦人会の機関誌が『日本婦人』である(1942年11月創刊)。『日本婦人』とはそもそも国防婦人会総本部の機関誌の名であるから、国防婦人会から大日本婦人会へと広がる陸軍の主導性が明示されている。

 

『日本婦人』創刊号

 『日本婦人』創刊号は、口絵が「南北民族手芸集」、グラビアが婦人増産部隊(千葉県中根村)であり、関連した記事に、「なかね村記」(銃後増産第一線婦人部隊を見る)がある。

 特集「『日本婦人』創刊に贈る」で、東条英機(首相、大政翼賛会総裁)・小泉親彦(厚生大臣)等が祝辞を寄せている。東条は、「日本婦人創刊に贈る」(大日本婦人会発会式での祝辞)で、「男子が後顧の憂なくお国のために正しき道のため全力を振つて活動し得るは洵(まこと)に貞純なる妻の犠牲的なる協力によること多く」と称えている。会長の山内禎子の「輝く大日本婦人会の発足」も載っている。

 他方では、座談会「理想の日本婦人を創る」(山田わか・岸田国士・吉屋信子など)、高群逸枝「日本女性史」(第一回・御女帝の聖徳)、羽仁説子「私の日記」、吉岡弥生(公開状往復、婦人標準服について)、河崎なつ(同、戦時生活)等の従来の婦人運動家も登場している。

 その他に、特集「空襲下の家庭生活」、長谷川路可「大東亜共栄圏の衣服」(連載)等があり、附録として「大日本婦人会会員制服実物大型紙」(折込)が付いている。

 そしてこの中に、「婦道」と題して、高橋健二(大政翼賛会文化部長)と野上弥生子の文が並んでいるのである。高橋の文は次のように始まる。

 

陸海の軍神がすべて田舎から出てをられ、お母さまに対して特に深い感謝を寄せてをられるのは、非常に意味ふかいことに思はれます。/田舎の力と母の力、これが日本の強さを形づくつてゐる、目に見えない二つの要素です。

 

 これに野上の文が続く(「新しき婦道」としてⅡ29所収)。

 

「新しき婦道」

 山野を歩き回っていると思いがけない小径(こみち)を見つけ、それについて行くと、その先に冷たい水があることがある。(第一段)。

 人の世の中にも、「男には男の道が、女には女の道が、〔中略〕命を受くるものには命を受くるものの道がある。」「大事な中心はお互ひにしつかり結びついて」いる。その「一筋の道」とは、「日本人として生まれ、日本人として死ぬる私たちが、この世にいかに生くべきかの生き方を示す道以外ではない。」(第二段)

 「婦道と呼ばれて来た女の道とても、〔中略〕徳操を身をもつて実践することが、同時に、日本人としての大道に合致するものでなければならない。」

 「同時に忘れてならないのは、〔中略〕女の生き方も時代によつて著しく変化することである。」「私たちは優しいとともに、極度に強く、逞しくなれなければならない。家を守り、子女を教育するとともに、隣組や町会の事業に欣然と参加しなければならない。むしろ大切な家に鍵をかけても、それ以上大切な仕事の待つ工場へ勤務しなければならない。これが私たちに与へられた新しい婦道である。」

その際、「モンペ」もなかなか美しいという。

 

十年前東京の町をモンペで闊歩することを、私たちが夢にも想像したであろうか。しかし必要は私たちにそれを穿かした。穿いて見れば、便利で働き易い。上下とも調和ある無地もので拵へると、なかなか美しい。

 

 「必要はむしろ新しき婦道は、私たちの美的意識までも一変させたのである。」(以上第三段)

 そもそも、「新しきものはつねに古いものに繋がつてゐる。〔中略〕私たちのもつとも新しい生き方は、もつとも古い伝統的な婦道である。」(第四段)

 最後に、「新しい婦道」とは、先覚者として、大東亜共栄圏の女性たちを導くことでもある。

 

 最後に私たちの新しい婦道は、単に私たちだけの婦道であつてはならない。私たちの日本が今日の東亜に於いてもつてゐる輝かしい地位が、共栄圏の国々を軍事的に、外交的に、政治的に、経済的に当然指導しなければならないやうに、それと相伴つて、これらの諸国の婦人たちの前に、よい先覚者として立たなければならない役割が私たち日本の婦人に課せられてゐる。〔中略〕もう一度小径の例をひくならば、私たちはそれを一層ひろげ、滑かにし、私たち日本の姉妹のみでなく、共栄圏の国々の婦人たちも、悦んで手を繋いで駆けさせ得る大道に仕あげることが私たちの任務である。(第五段)

 

武で切り拓いた道は、文で舗装されなければならない。その上に婦人の優しい愛が花を撒く時、道ははじめて美しい道になるであらう。(第六段)

 

 さすが第一級の文学者・知識人だけあって、格調高い文章である。市井の様々な人の道(「小径」)が、日本の「大道」、さらには、大東亜共栄圏の「大道」に続いていると言う。しかも、その際、「新しき婦道」を唱えて、「家を守り、子女を教育するとともに、隣組や町会の事業に欣然と参加しなければならない」「大切な家に鍵をかけても、それ以上大切な仕事の待つ工場へ勤務しなければならない」と言う。野上は、たしかに、(精神総動員・徴用令の下で)「主婦」を動員する旗振り役を立派に務めているのである。

 

「新しき婦道」と東条英機の女性動員政策

 これは、「新しき婦道」として、着物をモンペにはきかえて、隣組や町会の事業(たとえば空襲に対する “防空訓練”等)に参加しましょう、工場勤務もしましょうという、ある種の改革の呼びかけである。すなわち、「婦道」、具体的には、夫の留守に家を守る「主婦」というスタンスを崩さないで、同時に、国からの動員に積極的に応じましょうということである。

 たしかに、これは、東条英機(首相、大政翼賛会総裁)の祝辞(「男子が後顧の憂なくお国のために正しき道のため全力を振つて活動し得るは洵(まこと)に貞純なる妻の犠牲的なる協力によること多く」)に呼応したもの、すなわち、「家族制度」を崩さないよう留意しながら女性を動員するものになっている。換言すれば、「家(うち)」を守るという女性のエートス(土台)を揺るがせにしないで、「内地」を守る(“防空訓練”や工場勤務などの戦中の動員に応じる)という女性の気概(応用)を養うものになっているのである。

 ただし、それは、(東条を満足させたとしても)野上自身が肯定できないものを「改革」として呼びかけることであり、その意味でより作為的であるともいえるのだが。

 

 

3.「種々の意味」から「なんでもオーライに」

 

「種々の意味」

 どうしてこういうことになったのだろうか。『婦人公論』等で、極めて慎重に戦火拡大を批判していたあの野上が、である。日記には次のようにある(1942年9月4日)。

 

今度大日本婦人会から出る機関雑誌『大(ママ)日本婦人』の創刊号に『新しき婦道』という短文をたのまれ、三日費して書きあげた。種々の意味がこれを書かせたのである。(Ⅱ⑦533)

 

 「種々の意味」から、「大日本婦人会から出る機関雑誌」の創刊号に登場することを決断し、「三日費して」、苦心惨憺して書きあげたということである。

 

「なんでもオーライにしておかう」(1942年10月12日)

 じつは野上には、この件を含め、戦争「協力」を問われる件がいくつかある(狩野266‐275頁、古庄176‐192頁。以下は主に古庄による[9])。

 まず、1940年には、文部省図書の推薦委員になっている(『婦女新聞』同年5月第4日曜号による)。

 そのうえで、特に1942年後半はフル回転である。『日本婦人』創刊号への執筆依頼の約一ヶ月後には、大日本婦人会の「生活文化研究委員」になるように要請があり、それもひき受けることにする。日記(同年10月12日)には、「大日本婦人会から生活文化委員になるものになれといつてくる。なんでもオーライにしておかう」とある(Ⅱ⑦556)。

 続いて『日本婦人』二月号には、夫・豊一郎が「能について」を寄稿し、これは「能の衣裳」という豪華な色刷りグラビアとなっている。

 さらに、国民学校の初等科五年生用の音楽教科書(1943年2月刊行)には、野上の作詩(敗戦後判明したもの)による「母の歌」が入っている。

 ただし、問題の二番は、野上自身が書いたものではない──挿入されたものではないか──という見方が、狩野美智子氏より出されている(狩野268頁以下)。たしかに、「母こそは、み国の力。をの子らをいくさの庭に遠くやり、心勇む。ををしきかな 母の姿。」(Ⅱ29、100)という二番の詩は、あまりに弥生子から遠い。とはいえ、野上の日記には歌詞を覚えていないとあり、真相は不明である。

 さらに、「大日本婦人会審議員・小説家」の肩書で、日本出版文化協会の雑誌委員になっている(『日本出版年鑑』1943年版)。[10] 

 総じて、大日本婦人会機関誌の創刊号で「婦道」(「新しき婦道」」を発表し、さらに、同会の審議員になり、その上、日本出版文化協会の雑誌委員を務めた──野上弥生子の戦争「協力」の姿勢は明確である。

 

「協力」の理由の検討

 「新しき婦道」を書き、さらに、「なんでもオーライ」でいく──戦争「協力」の姿勢を明確にする──と野上が決断した「種々の意味」とはいったい何なのかを検討してみよう。

 まず何よりも、徴兵年齢にある三人の息子の行く末という問題があったであろう。

 他方で、野上自身、「無産階級」の運動に関係する女子学生を主人公にした長編小説「真知子」を1928年8月から数年間『改造』に連載していた。(この頃にはまだそれだけの自由があったとはいえ、同年の「三・一五事件」の後ではある。)また、同様の題材の「若い息子」(1932年)を描き、さらに、「黒い行列」(のちの「迷路」)を『中央公論』(1936年11月号)に発表している。

 そして、野上はじつは、ちょうど日中戦争勃発直後から『婦人公論』の巻頭言を書いていた。(これと関係があるのか、1938年4月19日には、特高の来訪があった。)しかも、中国戦線での戦火の拡大とともに、批判は次第に直截なものになっていく。

 さらに、致命的なことに、野上はあの「宮本百合子」の長年の友人であり、支援者である。しかも、「百合子さん」を手放す気はない。

 かくして野上は、(自分の目から見れば)立派な“確信犯”であり、そこから、出来る限りの用心をするほかないと判断したのではないだろうか。

 とはいえ、他方「情報局」は、じつは野上弥生子を極めて高く評価していた。おそらく、それが、『日本婦人』創刊号での呼びかけを依頼された理由である。

 

『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』(1941年7月)での野上弥生子の査定

 野上弥生子は、山川菊栄同様、「c. 評論家」中の、「(ハ)純粋評論家」(九名)中の一人に挙げられている。

 

野上彌生子は最も穏健なる文学者の一人で、評論の領域にも此の意味で、優れたるものあり、生涯を通じて偏せず、堕せず、一路、文学精進を続けたるは、与謝野晶子、今井邦子以外に其の類を見ない。(五八頁)

 

 山川菊栄も好意的に査定されているが、野上弥生子の場合、さらに、「四、適材適所」──七部門について、「之に指導者と見做される婦人に等級をつけて配分」したもの──で、「女性一般の文化教養問題」「女性の結婚と恋愛問題」「家庭婦人の問題」の三分野においてA群(等級A)に分類されている(七一-七三頁)。

 つまり、「精神総動員」下で「徴用」すれば、快く応じてくれる、能力・忠誠度ともに折り紙付きの婦人執筆者と査定されているのである。(ちなみに、山川菊栄は、「女性一般の文化教養問題」に等級Cとして入っているのみである。)

 この時点で情報局の担当者は、『婦人公論』の巻頭言の著者が野上弥生子であるなどとは思ってもいなかったのであろう。

 とはいえ、この調査は1940年5月号から1941年4月号までの一年間の「八大婦人雑誌」に基づくものであり、その後の『婦人公論』巻頭言でのぎりぎりまでの踏み込み、しかも、あの「宮本百合子」を手放さず支えていたことからすれば、野上弥生子があぶり出されてくるのは時間の問題であったともいえる。

 

「いよ\/米国とはじまるのか」(1941年10月17日)

 さらに、最終的には、人々の意表に出た──おそらく野上の計算も越えた──対米戦に突入したことが野上が決断した理由であるとみられる[11]。野上が最後の「題言」を発送した翌日の日記(10月17日)には、次のようにある。

 

内閣が昨夜八時に総辞職した由、いよ\/米国とはじまるのか。(Ⅱ⑦404)

 

 この夜、近衛文麿内閣が倒れ、数日後には東条英機内閣が成立したのである。

 この後、野上は日記をつけていない。再開は、約二ヶ月後(12月13日)である。「いよ\/米国とはじまる」ならば、用心するほかないと考えたのであろう。

 案の定、戦争突入の翌日、「百合子さん」をはじめ、少なからぬ知人・友人を拘束し去っった。野上は、こうした中で、息子たちをはじめ身内を守る決意を固めたと考えられる。そこから、「なんでもオーライにしておかう」(「日記」1942年10月9日)という決断をしたのではないだろうか。つまり、「心ならずも協力せざるを得なかった」ということではある。

 ただし、野上の場合、冷淡と言えるほど、きっぱりしている。

 ちなみに、野上の日記のその前には、「アメリカの来年の攻勢は中々本格的なものらしい。」(10月7日)、「東京の防空訓練は九十の二日で中々やかましいらしい。しかしアメリカが企ててゐるやうな空襲手段にたいして、そんな防禦法がなにの役にたつだらう。私たちがどうしても真剣になれない原因はそこにある。」(10月8日)とある。

 野上は、アメリカの空爆・空襲、それに対して東京が無力なこと、バケツリレーなどの“防空訓練”など茶番であることをこの時点で承知し、しかも、にもかかわらず「いよ\/米国とはじまるのか」と認識したのである。

 ともかく、このようにして野上は、戦中をなんとか乗り切っていくつもりであったと考えられる。

 こうした「協力」は強制によるものとは言えないから、自発的な「協力」ということになる。ただし、野上の場合、“確信犯”的「協力」であり、その意味で通常の意味での「転向」とは様相を異にする。

 むろん、そうしたことはあくまで執筆する側の事情であり、執筆者としての責任をそれで免れるというものではない。野上弥生子が大日本婦人会機関誌『日本婦人』の創刊号で、「新しき婦道」として、着物をモンペに着替えて「隣組や町会の事業」や「工場勤務」に参加しようと呼びかけた影響は小さくないのである。

 

戦争末期

 野上は、東京の空襲を避けて、1944年12月、「大学村」の別荘に疎開した。同時に、「大学村」に駆け込んできた三百人近くの人々が越冬する世話に奔走した(狩野256頁)。

 こうした野上に対して、1945年5月から7月にかけて、長野県庁特高課・長野検事局から執拗な接近があった(狩野257頁以下、古庄189頁以下)。

 直接には、湯浅芳子が三月末軽井沢で検挙されたことをうけて、芳子が前年弥生子の家を訪ねた際に弥生子と話した内容を、本人に糺すというものであった。日本が負けたらアメリカは皇室をどうするだろうかと芳子が訊いたら、弥生子が「千代田公爵家といふ風なものでも拵へるかもしれない」と応えた、というものである。不敬罪で身元調査されているという噂もあったという。

言うまでもなく、湯浅芳子は宮本百合子と七年間暮らしたパートナー、しかも、ソビエト・ロシアで三年近く暮らした仲である。つまり、「宮本百合子」関連の圧力がついに来たのである。

 

 なお、『婦人公論』は、1944年1月、『中央公論』存続の条件として三月号をもって休刊に追い込まれた。1月29日には『中央公論』と『改造』の編集者が「共産主義者」の疑いで検挙された(「横浜事件」の一環となる)。さらに、2月の雑誌統廃合で『婦人公論』は廃刊となる。7月10日には、中央公論社自体が、編集者の検挙を口実にして、改造社と共に情報局から(自主)廃業を申し渡され、同月末(自主)解散したのである[12]

                                                    (2017年10月記)

 

[1] 野上弥生子に関する先行研究・評論は数多い。女性史・フェミニズム的観点からは、早いものとして渡邊澄子『野上彌生子研究』(八木書店、1969年)がある。また、戦時下の彌生子の「日記」と女性雑誌への寄稿に着目した研究として、山田よし恵「戦時下の知識人・野上彌生子──『日記』と女性雑誌への寄稿を中心として」(『戦争と女性雑誌──一九三一年~一九四五年──』〔ドメス出版、2001年〕所収)がある。さらに近年、狩野美智子『野上弥生子とその時代』(ゆまに書房、2009年)、次いで、古庄ゆき子編『野上彌生子』(ドメス出版、2011年)が刊行された。本稿では、前者を「狩野」、後者を「古庄」と略記して本文中に頁数を示した。なお、本稿はこうした先行研究の成果に基づくものであるが、煩雑さを避けるために注記は特に必要と思われる箇所にとどめた。 

[2]夏目漱石は次のように述べている。「女子だから奥深い理の文学が書けないとは云へない、〔中略〕何方(どちら)かと云ふと女子には緻密なる観察を以て客観的な写実の文が得意の様である。」(「女子と文学者」、『女子時事新聞』1906年10月1日付)。「女だから男子と同様のものを書くべきもので無いと云い得られないのは勿論である〔中略〕要は作品の問題で畢竟佳い作物さへ出来ればそれで宜いのである」(談話「作家としての女子」、『女子文壇』1909年2月号)。ともに『漱石全集』第25巻(岩波書店、1996年)所収。

[3] 野上の評論は、『野上彌生子全集』(岩波書店)の第一期第19巻に「叢林」として所収。

[4]『野上彌生子全集』(岩波書店)の、たとえば第一期(1980-1982年)第一巻を「Ⅰ①」、第二期(同、1986-1991年)第一巻を「Ⅱ①」と略記し、その後に頁数を記す。

[5] 拙稿「『主婦の歴史』と『特攻精神をはぐくむ者』──月刊誌『新女苑』における山川菊栄と柳田国男の出会い─」の「5.その後の両者────『新女苑』『婦人公論』から引く山川菊栄」を参照。

[6] 1978年6月の山川菊栄の談話より推定。外崎光広・岡部雅子編『山川菊栄の航跡──「私の運動史」と著作目録』(ドメス出版、1979年)、148頁。なお、談話から、1938年11月号も山川によると推定されている(147頁)。

[7] 『野上彌生子全集』第二期第29巻「後記」743頁を参照。

[8] 前掲岡部雅子『山川菊栄と過ごして』、102頁。

[9]この問題に関する先駆的研究として、前掲山田よし恵「戦時下の知識人・野上彌生子」がある(なかでも290-291頁)。なお、狩野本と古庄本では、事実関係・考え方で異なる箇所がある。

[10]奥平康宏監修『言論統制文献資料集成』第12巻(日本図書センター、1992年)。

[11] なお、野上が戦火拡大を批判したことは、野上が、たとえば、植民地政策に反対だったことを意味するものではない。長谷川時雨との対談(1936年春)では、「台湾のことは小石川や麹町の話を聞くように聞いてゐました。〔中略〕蕃人は、日本の所謂温情的な政策で以て、日本人を絶対に信頼し、本島人に対しては一種の敵対感情を有つてゐると云ふところまで育て上げました。」と語っている。『輝ク』1936年第6号・第7号。(Ⅰ別巻一、52)

[12]本稿は、拙稿「「評論家」野上彌生子、戦時・戦中・戦後」(『法学志林』第110巻第3号、2013年2月)の前半部(戦時・戦中)を改訂したものである。

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