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「情報局」と「八大婦人雑誌」の統制

 内閣情報局と言論統制

 一般に戦争中の日本(直接には「内地」)では、言論弾圧のために本や雑誌の出版は極めて困難であったという想定が根強いが、必ずしもそうではない。出版できなかったものもあれば、できたものもあるのである。また、執筆できなかった人、書けなかった事もあれば、できた人、書けた事もあるのである。

 戦時(日中戦争勃発後)でも出版物は少なくない。「情報局第一部」と記された小冊子『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』(昭和16〔1941〕年7月)によれば、「八大婦人雑誌」の発行総数は六月の調査で約263万9千部にのぼる。内訳は、『主婦之友』122万、『婦人倶楽部』98万、『婦人公論』19万3千、『婦人之友』8万5千、『新女苑』6万4千、『婦人朝日』3万乃至は5万、『婦女界』2万9千である。

 つまり、「八大婦人雑誌」だけでも約270万部刊行されているのである。ただし、同時に、こうした場で活躍する執筆者をどう育成するのか──いかにして悪い種を摘み、よい種を育てていくのか──という観点、すなわち、「統制」という観点があったということである。

 こうした言論統制を統括するのは「情報局」、すなわち、内閣情報局で、第二次近衛内閣(1940年7月成立)で設置されたものである(初代情報局総裁・伊藤述史)。

 この小冊子を作成・配布した「情報局第一部」とは、その第一部である(初代第一部部長・伊藤賢三)。うち、第一課が企画・立案・実施、第二課が情報の蒐集整理、第三課が調査にあたる[1]。つまり、この小冊子は、第一部の各課をフル稼働させて作成されたとみられるのである。


 「思想戦」

 日中戦争の勃発(1937〔昭和12〕年7月7日)を機に、陸軍と内閣(第一次近衛内閣)は、「内地」での「思想戦」(及び情報戦・宣伝戦)に猛然と打って出た。

 まず、既存組織の昇格により内閣に情報部を設置した(1937年9月)。次いで陸軍が、新聞班を格上げして情報部を設置した(1938年9月)。新聞班とは、シベリア出兵時(1920年)に新聞記事統制のために設置したものである。

 陸軍情報部の初代部長は、「黙れ事件」で名が知れ渡った佐藤賢(けん)了(りょう)である。1938年3月3日、陸軍提出の国家総動員法を審議中の衆議院特別委員会で、陸軍省の説明員である佐藤が答弁中に「黙れ!」と委員側を怒鳴りつけたのである[2]。同じ3日には、社会大衆党党首・安部磯雄宅への押しかけと傷害事件が起こり、また、総動員法をめぐる議会での攻防の直前には、政友会、民政党本部への乱入・占拠事件が起こっていた。結局、法案は、政友会・民政党・社会大衆党の一致により、同月16日に無修正で可決された。[3]この件に続いて、陸軍情報部長となった佐藤は、談話で「今や我が国は古今未曾有の事態に際して居る」[4]として「軍民渾然一体」「軍民一如」を呼びかけたのである。

 他方では、1937年年末には内務省警保局(図書課)が、出版関係者を集めて懇談会を開き、七名の執筆者(宮本百合子・戸坂潤ら)の原稿を掲載しないように内示した。さらに、翌年5月には「婦人雑誌ニ対スル取締方針」を出版社に示して、編集者・書き手に対する取締りを格段に強めた。

 なお、その二年後には、内閣に「新聞雑誌用紙統制委員会」が設置され(1940年5月)、同年12月には業界自身の統制機関として「日本出版文化協会」が発足し、用紙の割当を通じて紙媒体としての成立自体が統制下に置かれた。

このようにして、従来からの内務省警保局(さらに特高や検事局、憲兵隊)等に加えて、内閣情報部、陸軍情報部が設置され、新聞や雑誌に介入する機関が林立したのである。

 月刊誌『少女の友』『新女苑』主筆の内山基の回想によれば、この頃、「私達編集者は雑誌を発行すると、忽ち、陸軍の報道部、内務省、警視庁、時には検事局、憲兵隊から呼び出されるのである。そして彼等から見て時局に合わない不都合な箇所を、係官からきびしい指摘を受けるのであった」[5]。

 こうした状況で、全体を統括する機関、「思想戦の参謀本部」を作るべく、内閣情報部を改組した内閣情報局が設立されたのである(1940年12月6日)。(これに伴い、陸軍情報部は陸軍報道部と改称された。)

 なお、付言すれば、「アカ」を弾圧する──「プロレタリア独裁」や「君主制の廃止」をめざす団体は「国体変革を目的とする結社」であるとして最高刑・死刑をもって威嚇する──治安維持法の違反に問われた検挙者は、1931年から33年の三年で約三万九千人にのぼる。つまり、年平均一万人以上、1933年だけでじつに一万五千人近くが治安維持法違反で検挙されているのである[6]。同年には大量転向と瓦解が起こり、1935年には共産党が壊滅する。

 換言すれば、こうした大量検挙・大量転向を経てその数年後に敢行される「思想戦」とは、残っている人間(自由主義者・個人主義者や「転向者群」)に対する、陸軍・政府側のほぼ一方的な“攻勢”に他ならない。

 

 『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』

 小冊子『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』は、内閣情報局(第一部)が、「昭和十五年五月号より同十六年四月号迄の八大婦人雑誌」、つまり、凡そ1940年度(同年5月号‐翌年4月号)の「八大婦人雑誌」の婦人執筆者に関して調査して、その結果を、「輿論指導参考資料」として「部外秘」扱いで配布したものである。

 この作成と配布は、数年に及ぶ「思想戦」の進展の延長上にある。すなわち、まず執筆者の排除と管理、次に媒体自体の排除と管理を進め、そのうえで、(残した)媒体で(残した)執筆者をいかに使って「輿論指導」を成功させていくのかへ関心が移っているのである。

 言い換えれば、この小冊子は、情報局関係者(なかでも、雑誌の指導を担当する第二部第二課、文芸一般の指導を担当する第五部第三課)、及び、おそらくはその「指導」下の雑誌社や編集者に、婦人執筆者の有効な活用方法(「適材適所」)を「指導」するために、第一部(企画)が作成・配布したものと考えられるのである。

 この小冊子を検討することによって、「非常時」及び「戦時」「戦中」の「国家総力戦」「国民総動員」体制の運用とは、具体的にはどのようなものであったのか、なかでも、(従来の研究でほぼ等閑視されてきた)女性言論人に対する「言論統制」とは実際にはどのようなものであったのかを探ってみたい。

 なお、ここで、「非常時」とは柳条湖事件(1931年9月18日)以降、「戦時」とは日中戦争勃発(1937年7月7日)以降、「戦中」とは太平洋戦争突入(1941年12月8日)以降、「戦後」とは連合軍への降伏以降(占領期)を便宜上指すことにする。

                                            (2017年10月記)

 

[1] 奥平康宏監修『言論統制文献資料集成 第20巻』(日本図書センター、1992年)「第四章情報局の設置」、1940年9月28日決定「情報局設置要綱」及び「情報局機構案」(189-191頁)を参照。

[2]『東京朝日新聞』(1938年3月4日付朝刊)。

[3]前坂俊之『太平洋戦争と新聞』(講談社、2007年)344-348頁を参照。

[4]『文芸春秋』(1938年11月号)の新聞匿名月評・田村町人「陸軍情報部に望む」中での発言の紹介による。ちなみに、『東京朝日新聞』(1938年9月28日付朝刊)では、「今や我国は前古未曾有の事変に際会して居る」。

[5] 内山基「或るさしえ画家のこと」、『編集者の想い出』(モードエモード社、一九八三年)所収。

[6]検挙者数は、1931年が10422人、1932年が13938人、1933年が14622人で、三年間で計38982人である。『増補 特高警察体制史』『現代史資料(45)治安維持法』。中澤俊輔『治安維持法』(中央公論新社、2012年)130-131頁を参照。

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