漱石の感覚

 漱石の作品と書簡には、朝鮮人、中国人、あるいは、底辺労働者などに対する差別的な、時に鋭い揶揄を伴った罵倒に近い言葉が見られる。「朝鮮国王の徒」「土蕃」(書簡)、「土竜(もぐらもち)」「土蜘蛛(つちぐも)」(「坑夫」)、「汚ならしいクーリー団」(「満韓ところどころ」)等がそれである。これらは漱石(漱石という人間)を評価するうえでの関門とならざるを得ず、疑問が呈されてきたところである。

 どのような発言があり、そうした発言は、どのような状況で、どういうつもりで発せられているのかを検討する。

 

1.朝鮮──「王妃の殺害」「朝鮮の王様」、「朝鮮国王の徒」

2.琉球──「琉球の王様」、「土蕃」

3.「土蜘蛛」「土竜」、「怒った蜂の巣」「鳴動連」と、蜂・蟻・蜘蛛の子・田螺

 

1.朝鮮──「王妃の殺害」「朝鮮の王様」、「朝鮮国王の徒」

 

「近頃の出来事の内尤もありがたきは王妃の殺害」

 1895(明治28)年11月、夏目金之助(漱石。28歳)は親友の正岡子規に、朝鮮王妃の殺害(10月8日)を「近頃の出来事の内尤もありがたき」事と書き送った(11月13日付書簡)。

 

仰せの如く鉄管事件は大に愉快に御座候。小生近頃の出来事の内尤もありがたきは王妃の殺害と浜茂の拘引に御座候。(句点引用者。22-88)

 

 「浜茂の拘引」とは、「鉄管事件」という汚職事件が摘発され、逮捕にまでおよんだことが「大に愉快」だということである。これと並んで、漱石は、「王妃の殺害」が、自分にとって「近頃の出来事の内尤もありがたき」事だと伝えている。「尤もありがたき」という言葉には、悪が成敗されてありがたいという自身の道徳的感覚が込められているのである。

 こうした感覚は、殷王朝の紂王と王妃妲(だっ)己(き)を倒した周の武王の故事(『書経』牧誓)以来、儒学・史学の伝統の中に脈々と息づいてきたものである。江戸時代の日本では、『南総里見八犬伝』(滝沢馬琴)中の、国主の寵愛をほしいままにして政事に嘴(くちばし)をはさんだことが罪だとされた妖婦「玉梓(たまづさ)」の処刑がその例である。漱石は、朝鮮の王妃をこうした文脈で描く『日本』(子規が編集に参加)の論調に同調し、国王の寵愛を手に政事に介入した「王妃の殺害」が、「小生近頃の出来事の内尤もありがたき」事だと子規に伝えたのである。[1]

 

「朝鮮の王様」

 第二次日韓協約(1905年11月)を元に、統監及び統監府が設置されたのが1906年2月。翌7年6月には、この協約の無効を訴えるため、高宗がハーグの万国平和会議に特使を送り込もうとした。7月3日、伊藤(統監)が高宗にその責任(協約違反)を追及し、19日、高宗は譲位する。これを知った漱石は、この日、次のように反応している[2]

 

朝鮮の玉(王)様が譲位になつた。日本から云へばこんな目出度事はない。もつと強硬にやつてもいゝ所である。然し朝鮮の王様は非常に気の毒なものだ。世の中に朝鮮の王様に同情してゐるものは僕ばかりだらう。あれで朝鮮が滅亡する端緒を開いては祖先へ申訳がない。実に気の毒だ。(1907年7月19日付小宮豊隆宛書簡。23-85)

 

 日本としては「もっと強硬にやってもいゝ所である」、他方、「朝鮮の王様は非常に気の毒」である。何故かと言えば、自分の代で国を滅亡させてしまっては「祖先へ申訳がない」からである。

 漱石は、髙宗の譲位だけでなく、「もっと強硬にやってもいゝ」と言う。数日後(24日)、第三次日韓協約が締結され、韓国の内政全般を日本が掌握し、軍隊を解散させた。こうした流れが漱石の感覚に反するものだったとは思われない。

 

「余計な事をいふ奴は朝鮮国王の徒だ」

 続いて、『東京朝日』での初めての連載「虞美人草」の評判が芳しくないことに苛立って、「わからんものどもはだまつてゐれば好い」「余計な事をいふ奴は朝鮮国王の徒だ」と弟子小宮に言い放つ。

 

虞美人草について世評はきかず。みんなが六(む)づかしいと云ふ。凡てわからんものどもはだまつてゐれば好いと思ふ。それが普通の人間である。余計な事をいふ奴は朝鮮国王の徒だ。況んや漱石先生に如何(いか)程(ほど)の自信あるかを知らずして妄りに褒貶上下して先生の心を動かさんとするをや。(同年8月3日付小宮豊隆宛書簡。23-98)。

 

 「虞美人草」に対する「むずかしい」「わからない」という声に苛立って弟子に怒りをぶつけたという文脈ではあるが、漱石は、一連の事態は髙宗の協約違反が引き起こしたものであるとでも言いたげ──日本政府がそう思わせたかったように──である。

 

 以上見てきたように、ここまでの漱石は、親友正岡子規に向かって王妃の殺害を「小生近頃の出来事の内尤もありがたき」事と伝え、また、髙宗の譲位を知って、弟子小宮豊隆に、「日本から云へばこんな目出度事はない。もっと強硬にやってもいゝ所である。然し朝鮮の王様は非常に気の毒なものだ」という感想をもらし、さらに、第三次日韓協約締結のあと、「わからんものどもはだまつてゐれば好い」「余計な事をいふ奴は朝鮮国王の徒だ」と小宮に怒りをぶつけた。

 発話の相手は、親友及び親しい弟子である。ある程度共通の認識があり、また、自分を受け入れてくれ、反論してこないと見越して、感情を吐露し、思いきった言葉をぶつけているのである。

 

新聞小説「明暗」の「小林」と「吉川夫人」

 なお、後のことであるが、新聞小説「明暗」(1916年5月連載開始)では、朝鮮総督府下の「朝鮮」へ行って新聞社に就職しようという、めかし込んだ小林に、「実はこの着物で近々都落(みやこおち)をやるんだよ。朝鮮へ落ちるんだよ」と言わせている。小林は、「朝鮮三界(さんがい)まで駈落のお供をして呉れるような、実のある女」がいてくれれば、という願望も吐露する[3]

 「都落」「朝鮮へ落ちる」、そして、「朝鮮三界」──挑戦的にこう並べ立てる作者の意図が明らかにならないまま、「明暗」は未完に終わった。

 ちなみに、「明暗」には、主人公津田が、「女性の暴君と奉(たてま)つらねばならない地位にあつた」「漢語でいうと彼女の一顰一笑(いっぴんいっしょう)が津田には悉く問題になつた」女性権力者「吉川夫人」が登場する(一三一)。この女性は夏の末喜(ばっき)、殷の妲己だっき)、周の褒姒(ほうじ)の系譜上にある[4]

 ただし、清国の西太后は、夫咸豊帝が没し、幼い息子が即位(同治帝)した際、宮廷クーデター(辛酉政変)で若くして(東太后と並んで)最高権力者になったわけであるから、漱石の同時代人で「吉川夫人」に近いのは、朝鮮王妃(にまつわる語り)である。漱石が、「小林」と並んで、あの「王妃」を思わせる「吉川夫人」を「明暗」で描いたのも、偶然とは思われない。

 

2.琉球──「琉球の王様」、「土蕃」

 

「琉球の王様」

 琉球については、「琉球の王様」(⑯522)がある。第六回文展を見ての連載「文展と芸術」(『東京朝日』1912〔大正1〕年10月)中にある、画(山口瑞雨「琉球藩王図」)に描かれた人物である。

 漱石は、まず、金屏風「南海の竹」を、「此むらだらけに御白粉(しろい)を濃く塗つた田舎女の顔に比すべき竹」と形容し、次いで、「此竹の向側(むかいがわ)には琉球の王様がゐた。其侍女は数からいふと五六人もあつたらうが、何れも御さんどんであつた」と述べる。

 「すつきりと気品高く出来上つた雅邦のそれ」(橋本雅邦「竹林猫図」)とは対照的だと念を押したうえで、この「田舎女の顔に比すべき竹」があり、その向かいに、いずれも「御さんどん」である侍女たちにかしずかれた「琉球の王様」がいるという。この「琉球の王様」が、もはや、「王様」の名に値しないのは明らかである[5]

 ここで漱石は、滅びつつある国の「王様」をおもんばかって「非常に気の毒」だと感じるということもない。ただ眺めているだけである。

 「御さんどん」とは台所で炊事をする下女であり、宮廷女性からはほど遠い。「美」、「品」がない(ただの「田舎女」だ)と言っているのである。このように、「女」を二手に記号化することで、漱石は(東京人としての[6])文化的優越を突きつける。

 ただし、現実の歴史は、文化的優越ではなく、軍事的優越の問題であった[7]。しかも、「琉球藩王」は那覇在住であるから 日本からの位置づけが変わっても、首里城に君臨する王であることに変わりはない。つまり、この画自体が、悪意がないとは言い切れない想像上の産物なのである。にもかかわらず、評者・漱石は、「田舎女の顔に比すべき竹」と、その向かいにいる「御さんどん」を侍らせた「琉球藩王」という空間に注目して、わざわざ紹介したのである。

 

「琉球か台湾へでも参る」「愈土蕃と落魄しては」

 ドイツの大塚保治宛てに熊本から出した手紙(1896〔明治29〕年7月28日付。22-105)に「琉球か台湾へでも参る」、とはいえ、「愈(いよいよ)土蕃と落魄しては少々寒心仕る」という一節がある。

 

小生は東京を出てより松山、松山より熊本と、漸々西の方へ左遷致す様な事に被存候へば、向後は琉球か台湾へでも参る事かと我ながら可笑(おか)しく存居候。為朝か鄭成功の様な豪傑になれば夫でも結構と思ひ候へども、愈土蕃と落魄しては少々寒心仕る次第に御座候(句読点引用者)

 

 自分を笑ってみせるユーモアである。相手も笑ってくれる、つまり、認識を共有している、少なくとも怒り出したりしないと見越したうえでの、「土蕃」という言葉である。

 

3.「土蜘蛛」「土竜」、「怒った蜂の巣」「鳴動連」と、蠢めく蜂・蟻・蜘蛛の子・田螺

 

「土蜘蛛」「土竜」、「怒った蜂の巣」「鳴動連」

 底辺の労働者に対する容赦ない揶揄的な視線も、また、漱石の在庫中にあるものである。

 新聞小説「坑夫」(東西両『朝日』、1908〔明治41〕年1月1日-4月6日)では、坑夫を「殆ど最下等の労働者」(五十)と呼び、もぐら(「土竜(もぐらもち)」)に喩え、「土蜘蛛(つちぐも)」を想起させた。「誰が土竜の真似なんかするものかと思つた」(八一)、「丸で土蜘蛛の根拠地見た様に色々な穴が、飛んでもない所に開いている」(同)である。

 「満韓ところどころ」(1909〔明治42〕年10月21日-12月30日)には、船が着く大連の河岸に集まっていた労働者に関して、「其大分(だいぶん)は支那のクーリーで、一人見ても汚ならしいが、二人寄ると猶(なお)見苦しい。斯う沢山塊(かたま)ると更に不体裁である」や、「船は鷹揚にかの汚ならしいクーリー団の前に横付になって止まった。止まるや否や、クーリー団は、怒った蜂の巣の様に、急に鳴動し始めた」(⑫234)(四)という表現がある。

 「馬車の大部分も亦鳴動連によつて、御せられてゐる様子である。従つて何れも鳴動流に汚ないもの許(ばかり)であつた。」(同235)とも言う。

 ついには、「ことに馬車に至つては、其昔日露戦争の当時、露助が大連を引上げる際に〔中略〕土の中に埋めて行つたのを、チヤンが土の臭を嗅いで歩いて、とう\/嗅ぎ中てゝ、一つ掘つては鳴動させ、二つ掘つては鳴動させ、とう\/〔後略〕」(同)とまで描く。

 漱石の意図どころか、見識自体が疑われる文である。とはいえ、大連に着いた漱石は、着岸もしないうちから、「支那のクーリー」「汚ならしいクーリー団」という、異質で不気味な集団に出会ったのだということはわかる。

 

蠢めく蜂・蟻・蜘蛛の子・田螺

 このように、漱石は、自分と異質なもの(他者)に対して、揶揄的な目を向け、罵倒に近い言葉を発している。

 もっとも、動き回る人間集団(男性集団)の描写という点では、これより前、軍隊、すなわち、旅順要塞への突撃戦で戦死した友だち「浩さん」と将兵たちに関するものがある。「趣味の遺伝」(『帝国文学』、1906年1月号)がそれであり、旅順要塞(松樹山(しょうじゅさん))への突撃隊の旗手として戦死した「浩さん」への限りない愛惜が込められたものである。

 「去年の十一月」「二十六日」、午後一時の大砲を合図に兵士達が壕から飛び出して、「蜂の穴を蹴返した如くに散り\/に乱れて前面の傾斜を攀ぢ登る」(②199)。

 「こちらから眺めると只一筋の黒い河が山を裂いて流れる様に見える。〔中略〕黒い者が簇然として蠢(うご)めいて居る。此蠢いて居るものゝうちに浩さんが居る。」

 「蠢めいて居る抔(など)と云ふ下等な動詞は浩さんに対して用ひたくない。ないが仕方がない。現に蠢めいて居る。鍬(くわ)の先に掘り崩された蜂群の一匹の如く蠢めいて居る。杓(ひしゃく)の水を喰(くら)つた蜘蛛の子の如く蠢めいて居る。如何なる人間もかうなると駄目だ。」(②200)

 「俵に詰めた大豆の一粒の如く無意味に見える。」「擂鉢の中に攪き廻される里芋の如く紛然雑然とゴロ\/して居てはどうしても浩さんらしくない。」

 そのうち、「忽ち長い蛇の頭はぽつりと二三寸切れてなくなつた。」「浩さんはどこにも見えない。是はいけない。田螺(たにし)の様に蠢めいて居たほかの連中もどこにも出現せぬ様子だ。愈(いよいよ)いけない。」(②203)

 動く人間集団(軍隊)を極小の虫、蜂や蟻や蜘蛛の子の群れに喩えている。こうして、人間としての尊厳を剥奪してしまう。

 同時に、遠くから、ないしは、高みから見て自分(達)を笑い飛ばす時、第三者の視座を得て自分(達)の客観視にもなり得る。たしかに「是はいけない」のである。言葉は使わずとも、誰が見ても馬鹿げた事態、馬鹿げた戦争指揮であることが明らかである。

 

 いかなる「写生文」か

 旅順の松樹山で、「浩さん」達は、「蜂の穴を蹴返した如くに」散り散りによじ登る、「鍬の先に掘り崩された蜂群の一匹の如く」、「杓の水を喰つた蜘蛛の子の如く」に。「田螺(たにし)の様に蠢めいて居たほかの連中」もである。 

 それが、大連の河岸ではどうであろうか。虫の喩えが「怒った蜂の巣」「鳴動連」に変わる時、限りない愛惜は、毒あるもの(他者)への恐怖と警戒心、相手の敵意をも想定したそれに変わっているのである。

 ちなみに、漱石は、「大人が子供を視るの態度」、「微笑を包む同情」をもって人事を描く、「世間と共にわめかない」、対象に寄り添う「写生文」という描き手のスタンスを論じている(「写生文」、『読売新聞』1907年1月20日)[8]

 言い換えれば、これは、「写生」と言っても、客観性(中立性)を重んじるというものではない。「わめかない」にせよ、対象の側に立ってこそ描き手は描けるのだという宣言でもある。つまり、漱石の言う「写生」とは、主体(描き手)が対象の傍らに立つことを前提にした「写生」なのである。

 「趣味の遺伝」での、動き回る男性集団──我が軍隊──の描き方はこれに相当する。「浩さん」への感情移入が強いからこそ、描けるのである。

 では、「満韓ところどころ」での「クーリー」の描き方は何と言うべきであろうか。対象に寄り添ってどころか、対象を突き放して描いている。描写における客観性(中立性)はさっさと放棄し、描写する主体の位置、対象との関係をあらかじめ決めて(この場合は離れた関係・敵対関係)、小気味いいまでに笑い飛ばしているのである。

                                                     (2018年5月記)

 

 

[1] 拙稿「漱石の足跡」(2018年4月)、1。

[2] 同上、5。

[3] 同上。

[4] 拙著『漱石の個人主義』(海鳴社、2017年)、281頁。

[5] 拙稿「夏目漱石と沖縄」(2018年5月)、1。

[6]より詳しく言えば、東京の「下層社会」(横山源之助『日本之下層社会』、1899年)ではない、東京人としての。

[7] 同上、4を参照。

[8] 拙著『漱石の個人主義』、138頁。

© 2017 Sumiko Sekiguchi