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内閣情報局による「婦人執筆者」の査定

──小冊子『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』(1941年7月)

1.『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』

2.「情報官」鈴木庫三の不在

3.東条英機による鈴木(永田鉄山「国家総動員」構想の後継者)放逐の可能性

 

1.『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』

 

 小冊子『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』の表紙には、表題をはさんで右上に「部外秘 輿論指導参考資料」、左下に「情報局第一部」とある[1]。「部外秘」とあるとはいえ、活版印刷であるから一定数が関係者の手に渡ったものとみられる。

表紙の裏には、「八大婦人雑誌に於ける主なる婦人執筆者に就き」考察・調査したものであるという一文がある。

 

本輯は大体昭和十五年五月号より同十六年四月号迄の八大婦人雑誌に於ける主なる婦人執筆者に就き量的質的の二方面より考察し輿論指導上の参考資料として調査せるものである。

                            昭和十六年七月

 

 つまり、1940年5月号から1941年4月号までの一年間の、「八大婦人雑誌」の「主なる婦人執筆者」についての「調査」と「考察」である。

 「凡例」には、「婦人執筆者群の動向」調査であり、「輿論指導上の参考資料として」、「可成(なるべく)広く利用せらるゝ事を希望する」とある。

 

一、本書は長期戦下銃後の一端を担ふ婦人に対し或程度の指導力を持つと認めらるゝ婦人執筆者群の動向に関して調査し、輿論指導上の参考資料として編纂したものである。

二、本書の内容は可成広く利用せらるゝ事を希望するが取扱上敢て部外秘とした。

 

 段落構成は、「一、調査目的」「二、量的考察」「三、質的考察」「四、適材適所」「五、結語」である。「三、質的考察」(個々の執筆者の分析)が、冊子全体(七十五頁)の大半を占める。したがって、ここが中心部である。

 

 調査目的

 「一、調査目的」では、1941年5月13日「当情報局が現今婦人の指導的地位にあると見做される婦人群を招待し、時局指導懇談会を開催した」が、結果が好ましくなかった、そこで、「輿論指導参考資料」の一端を用意すべく、調査を開始したという経緯が述べられている。

 そして、「未曾有の国家総力戦」という「時局」下、「高度国防国家建設」の急務を進めるうえで、「国民の半数なる婦人の指導問題」が浮上しており、そのためには婦人指導者の再吟味が必要であると述べる。

 

今や、時局は未曾有の国家総力戦下にあり、高度国防国家建設の急務の叫ばれる折柄、其の使命を帯びる国民の半数なる婦人の指導問題は極めて重要にして、指導の任にあると見做される婦人群の再吟味、再検討が従来、等閑視せられ、今尚、其の傾向あるは寧ろ奇異の観を与へる。(一頁)

 

 要するに、「時局」(「未曾有の国家総力戦」)にみあった「輿論指導」の一環として、「国民の半数たる婦人」を「指導」すべく、婦人指導者を集めて「懇談会」を開いた、だが、結果は思わしくなかった、そこで、婦人指導者自体を再吟味・再検討することにした、ということである。

 

 量的考察

 「二、量的考察」では、「八大婦人雑誌」に登場する婦人執筆者は百七十五名にのぼるが、そのうち三篇以上執筆したのはうち四十四名、総数の約四分の一に過ぎない、とする。さらに、その重要度まで考慮すれば、「更に、此の半数となり、殆んど既成の有名婦人のみが残される」として、二十一名の名をあげる。

 

即ち、阿部静枝、伊福部敬子、市川房枝、奥むめを、金子しげり、河崎ナツ、神近市子、窪川稲子、高良富子、帯刀貞代、竹内茂代、中本たか子、野上彌生子、羽仁もと子、羽仁説子、林芙美子、円地文子、宮本百合子、村岡花子、山川菊栄、吉屋信子の二十一名となる。(七頁)

 

 「八大婦人雑誌」とは、『主婦之友』(発行部数122万)、『婦人倶楽部』(98万)、『婦人公論』(19万3千)、『婦人之友』(8万5千)、『新女苑』(6万4千)、『婦人朝日』(3万乃至は5万)、『婦女界』(2万9千)であり、発行部数(六月調査)の総数は約263万9千部である(七頁)。

 ここからすると、この冊子は、5月13日の時局指導懇談会の結果をふまえて企画され、六月頃作成し、七月に刊行したことになる。

 「二、量的考察」の結論は、「対象を智識層に置く誌」、すなわち、『婦人公論』と『新女苑』が、発行部数は少ないのにもかかわらず、執筆者の人材が豊富で、影響力も大きい、これに対して、「他の絶対多数の発行部数を有する誌が、極く限られた一定執筆者に依存」している、ということである。

 

之を見るに、対象を智識層に置く誌は其の発行部数に於て総数の約十分の一に過ぎず、而かも此の少数の部数を有する誌が、既述の婦人執筆者の半数を占め、他の絶対多数の発行部数を有する誌が、極く限られた一定執筆者に依存するを考へれば、過半数の執筆者の検討もさる事ながら、其の影響力に於て、後者は重視せられねばならず、此の再検討は絶対多数の読者が無批判、無反省なる故を以て、更に重要であろう。以下質的考察を試みるに当つても、此の点に留意する事が肝要である。(七-八頁)

 

 質的考察

したがって、「三、質的考察」では、『婦人公論』と『新女苑』の執筆者に重心をおきながら、全執筆者について分析することになる。(さらに、これを元に、「四、適材適所」で執筆者の効果的な使い方を助言する。)

 まず、「1.概観」で、『婦人公論』『新女苑』というインテリ向け二大誌、『主婦之友』『婦人倶楽部』という大衆向け二大誌、その間に点在する、『婦人之友』をはじめとする数誌、という「婦人雑誌」の「概観」が描かれ、各雑誌について分析している。

 ここで、『婦人公論』『新女苑』の評価は極めて高い。

 たとえば、「思想を求める評論が極めて低次で而かも、公論、新女苑の二雑誌独占の形」(八頁)、「一般に、婦人雑誌は質的に低級で」、「敢て等級をつけるならば、公論、新女苑が群を抜き、此の二誌が文化雑誌として智的水準の高い婦人層を対象とし」(八頁)、「評論陣では、公論、女苑とも、大体同傾向の論調をもつてゐるが、質的には女苑がやゝ優ると思はれる」(九頁)、「公論と新女苑を第一等級の文化、総合雑誌と言ふなら、之に接近せんとするものに、婦人朝日が考へられる」(一一頁)とある。

 これに対して、『主婦之友』『婦人倶楽部』の評価は極めて低い。

極めて少数の執筆者への依存と、しかも、その水準が低いことが問題であるとする。さらに、「一部の執筆者の独占舞台たる観を呈する」(三頁)、「主婦之友は吉屋信子を守り神とし」(一三頁)と揶揄し、「いかゞはしい婦人執筆者が害毒を流す」(一二頁)と注意を喚起する。

 

次に主婦之友、婦人倶楽部の二誌は質的には大体同一と見做されても良い。即ち、一ケ年を通じて執筆者が他誌と比して甚しく少数で、其の顔ぶれも大体同じ傾向の人である。唯異なるは主婦之友で、家庭雑誌の色彩濃く、婦人倶楽部は娯楽に重点を置いてゐる点である。(一二頁) 

 

 そこから、こうした大衆誌こそ、「最も指導力ある婦人執筆者を得てしかるべき」であるという結論を導く。

 

いづれにせよ、読者層は他誌に比し絶対多数で、最上位の百万突破にのぼつてゐる。或る意味では少数のインテリ婦人層を狙ふ公論、女苑よりは、かゝ多数の主婦層、一般層を狙ふ此の二誌が最も指導力ある婦人執筆者を得てしかるべきと思はれる。云はゞ、大衆ではあるが、〔中略〕実質的に強力な力で現在の日本を支へてゐると見做されて良いのであるから、斯うした層を導く事は今後の婦人雑誌の一つの任務である。(一二頁)

 

 以上のように、「多数の主婦層」の趣向を低俗だと蔑視・嫌悪し、他方で、「文化」「思想」というものを高く評価する。そこから、「文化」「思想」に親しんでいるのが「少数のインテリ婦人層」にすぎないことは問題である、という結論が導かれる。

次に、執筆者の分析に入る。

 まず、「2.一篇乃至二篇の執筆者」の総数は百四十三名であるとし、うち「主なる人」七十三名の名をあげる。

 うち五十四名について、住所・略歴・執筆題名・「傾向」をあげる。(高群逸枝、長谷川時雨もここに入る。)

 さらに、その中でも「特筆さるべき」十六名について、解説を加える。(井上秀子、大妻コタカ、生田花世、羽仁恵子、ガントレット恒子、山田わか、河崎ナツがここに入る。)なかでも、河崎ナツ(文化学院教授)を激賞している。「河崎ナツの存在は一段と光彩を放つ」、「年配からも、経験、学識から言つても第一流の指導者として不足はないやうである」、と。

 そして、執筆篇数は僅少でも質的には高い人もいるので、「雑誌のみを通じて指導婦人を求めるは、此の意味で危険極まる事」という注意を与える。

 

要するに、執筆篇数は僅少ではあるが、質的には三篇以上の執筆者に比敵する人、多数あるは勿論で、雑誌のみを通じて指導婦人を求めるは、此の意味で危険極まる事であらう。(二六頁)

 

 次に、「3.三篇以上の執筆者」としては四十五名の名をあげる。内訳は、「a. 歌人」(四名)、「b. 作家」(十七名)、「c. 評論家」(十六名)、「d. 其ノ他」(八名)である。

 うち四十二名について、住所・略歴・執筆題名・「主要作品の概略の内容乃至は論調」をあげる。さらに、「特に問題視さるゝ数名に就いては雑誌社側の評言を加へつゝ、本調査目的の核心に触れ度い」と述べる。

 「b. 作家」(十七名)については、「評論家群に次いで重視さるべき」とした上で、「其の作品が文学的に如何に優れやうとも、其の内に含まれる無形の莿に毒害を蒙る事」に注意を喚起する。

 

既述の如く、作家群は数的に歌人群を圧倒するものであるが、質的にも、其の読者層を考へる時、評論家群に次いで重視さるべきである。読者の大半は斯うした作家の作品のみを耽読し、其の態度は無批判を極めるものであれば、其の作品が文学的に如何に優れやうとも、其の内に含まれる無形の莿に毒害を蒙る事は明らかで、其の再検討は指導原理把握の上にも必要である。(三七頁)

 

 作家(十七名)を、重要度に応じて、八名、六名(岡田禎子、壺井栄、円地文子等)、三名の三グループに分け、最後の三名について厚く解説する。

 最重要の三人(窪川稲子、林芙美子、吉屋信子)の中では、林芙美子を絶賛している。「作家らしい作家」、「女流作家群の最上級に属する人」、「憧を描き夢を育む彼女の作品は〔中略〕一つの奇蹟である」と。

 ただし、林に指導力を求めるのは無理であるとして(「然し乍ら、彼女の作家としての偉大さを直(す)ぐ様(さま)、指導者としての偉大さと見做す事程、彼女にとつて迷惑至極なものはないであらう」三九頁)、「出来るなら、そのまゝ、そつとして置いて良い作品を作つて欲しい人である」と結んでいる。

 吉屋信子については、その「中性化」を警戒し、彼女が婦人層に圧倒的人気を誇るのは「スターヴアリユー」から出た空虚なものに過ぎないとみなして、「今後努力して」「本来の面目を示すならば」大いに活動の余地があるとしている。

 

吉屋信子は、性格からも、作品からも窪川稲子、林芙美子、就中、林芙美子とは正反対の人である。性格の線は太く、其の智性が辛じて彼女の中性化を防ぎ止めてゐると思はれる。恐ろしく勇敢であり、恐ろしく精力家である反面、奇妙にも細心である。従つて影響力は、其の婦人層に持つてゐる人気を考慮するだけでも、充分認められても良いが、其の人気なるものが、所謂、根拠のないスターヴアリユーから出たものであり、実質的には空虚であると感ぜられるのは残念であるが、彼女自身が今後努力して、批評の圏内に立ち戻り、本来の面目を示すならば、たとひ、其の個人的性格から一部の人々に不快感を与へる事はあつても、大乗的見地に立てば此の人位、活動の余地がある人はない。(三九-四○頁)

 

 「c. 評論家」(十六名)は、「(イ)教育家」(三名)、「(ロ)実際運動家」(四名)、「(ハ)純粋評論家」(九名)に分けている。

 

 以上の如く評論家陣はいづれ劣らぬ才女賢婦揃ひであるが、論述の便宜のため、教育家、実際運動家、純粋評論家の三種類に分けて見るならば、教育家に属する人に高良富子、羽仁もと子、羽仁説子の三人、実際運動家に、伊福部敬子、市川房枝、奥むめを、金子しげりの四人、純粋評論家に、阿部静枝、神近市子、帯刀貞代、鳴海碧子、野上彌生子、平塚らいてう、宮本百合子、村岡花子、山川菊栄の九人がある。(五四頁)

 

 ここで、宮本百合子や野上彌生子が小説家ではなく、同様に、阿部静枝が本来歌人であるにも関わらず、「純粋評論家」(九名)に入れられているのが注目される。評論家については後述する。

 

 適材適所

 「四、適材適所」では、以上述べたところから、「一般に婦人指導者と見做される執筆者」は、「厳密に言へば僅か数人」に過ぎないとする。「指導とは権威を背後に持つてゐる暗示的強制」(七○頁)であると定義したうえで、指導者の決定的不足という現状にかんがみ、「適材適所」の観点から、便宜上、七部門について、「之に指導者と見做される婦人に等級をつけて配分」するとして、それぞれの部門ごとに、ABCの等級をつけて数名を配分する。

 その七部門と、等級Aの上位三名をあげれば、次のようになる。

 

「婦人時局指導の一般問題」 高良富子、村上秀子、(羽仁もと子)

「女性一般の文化教養問題」 今井邦子、茅野雅子、阿部静枝

「女性の結婚と恋愛問題」  阿部静枝、竹内茂代、河崎ナツ

「働く婦人の一般問題」   阿部静枝、奥むめを、羽仁説子

「母と子の問題」      伊福部敬子、村岡花子、奥むめを

「家庭婦人の問題」     阿部静枝、奥むめを、高良富子

「農村婦人の問題」     高良富子、羽仁説子

 

 阿部静枝

 この中で推薦回数が最も多い阿部静枝(四回)は、「c. 評論家」の項で、その「論調」が次のように紹介されている(四三頁)。

 

(論調)「若い女性は如何なる組織を持つべきか」=国を挙げての総力戦に参加すべき時、若い未婚女性の時局認識の不足と社会活動への協力の不足が指摘されてゐるが、特に農村の未婚女性は如何なる組織をもつて之に当るべきか?、農村の若い女性は其の教養、身分の上下を問はず、一丸となつて古きを捨てゝ時代認識の上に立つ新しい組織をもち、之を国策に花の美しさを添へる存在とし度い。(四三頁)

 

 「若い女性は如何なる組織を持つべきか」とは、『新女苑』(1940年9月号)で与えられた論題であり、それに応えた阿部の論調を歓迎したものとみられる。つまり、「国を挙げての総力戦に参加すべき時」、「若い未婚女性の時局認識の不足と社会活動への協力の不足が指摘されてゐるが」、この「若い女性」の組織化という難事業において、旗振り役になれる存在だと、歌人でもある阿部をみこんでいるのである。

 ちなみに、本人に関する論評では、「(ハ)純粋評論家」の項で、「此の人に新鮮さが感じられるのは、対象が若い女性である時、何よりの強みである」(五七頁)とされている。つまり、新鮮であり、若い女性が共感しやすいとみているのである。

 もっとも、阿部のごく短い評論自体は、「農村では未婚女性を統一した処女会や女子青年団がありますが、都会でも一定地域の人を集めた処女会(名称はどうでもよいが)を作るのが差し当たつて実現可能な組織であらうと思ひます。」と始まるもので、「都会」に関するものである。これを、「農村」の若い女性に関するものと読み替え、ないしは、読み違えているのである。

 

 高良富子

 次に推薦回数が多い高良(こうら)富子(三回)は、「c. 評論家」の項で、その「論調」が次のように紹介されている(四七頁)。

 

(論調)「女性をして日本人たらしめよ」=今、多くある婦人団体を一元化して、翼賛会に婦人局なるものを設け、従来の混乱し切つた動員組織を改め、政府の婦人に関する指令は此の婦人局を通じて全国へ伝へるやうにして貰ひたい。又男性の指導者の方も婦人を理解し、婦人をして真に日本人にして欲しい。

 

 「女性をして日本人たらしめよ」(『婦人朝日』、1941年2月号)とは、高良が、大政翼賛会の臨時中央協力会議(1940年12月16日から三日間)に招かれた際の報告と提起である。乱立・混乱している婦人の動員組織を一元化するために、翼賛会に「婦人局」を設けて、「政府の婦人に関する指令は此の婦人局を通じて全国へ伝へる」ようにすべきだというのが高良の主張である。同様の報告が、『婦人公論』(「中央協力会議に出席して──婦人の反省と協力を祈る」。同年同月号)でもなされている[2]。また、『婦女界』(同年同月号)では、「新しい女性の生活を語る」という題名で、阿部静枝と対談している。なお、これには「(農村)」と付記されているが、高良が「農村の声」に触れているのはごくわずかにすぎない[3]

 「時局指導」、および、どうやら最大の関心事であるらしい農村女性の組織化という問題(「農村婦人の問題」)で、高良を一番手に推している。「時局」理解に卓越し、動員組織の一元化という制度改革まで提案する、コロンビア大学大学院で博士号を取得した理論家(日本女子大教授、心理学)への信頼は絶大である。

 本人に関する論評では、「(イ)教育家」の項で、「婦人指導者中の最上級」とみなされてよいとしている。

 

彼女の婦人問題への関心の深度は片々たる婦人運動家の及ぶ所でなく、農村問題にも、女苑に乞はれて行脚を続け実地に触れ[4]、農村の家庭に迄這入り込んで検討を重ね、又価格形成委員で、貯蓄奨励委員をも兼ね、旧年十二月十六日より三日間に亙る大政翼賛会本部に開かれた臨時中央協力会議に五千万の婦人を代表して選ばれ「婦人の翼賛組織に関する件」を提案した点、所謂婦人指導者中の最上級と見做されても良いであらう。(五五頁)

 

 「転向者群」

 高良富子や阿部静枝が「等級A」であるとすれば、他方には、力はあるが忠誠度に難がある層がいる。こうしたB・C群とは、「社会にある不合理のみを指摘し、協力的態度に難色ある」か、「男性女性の対立観念から出発せる闘争理論を今尚固執する観」がある層である。

 

従つて、B群、C群と、A群との限界点は一は其の領域に於ける優劣にもあるが、他方、其の優秀なる点に於ては遙かにA群を抜くとも、余りに批判的態度に過ぎ、社会にある不合理のみを指摘し、協力的態度に難色あるか、男性女性の対立観念から出発せる闘争理論を今尚固執する観あるは、残念乍ら、適、不適の限界点とせざるを得ないのである。(七四頁)

 

 ただし、こうした「転向者群」も、「其の転向が完璧のものであるならば」、「適宜の指導方針をもつて之を迎へる」べきであると提起する。

 

従つて、之等難色ある人々が良い意味に於ける孤独を感じ、日本女性としての自覚に徹するならば、誠実であり、明敏であり、熱意もある人々であるから、人無き婦人指導者群にとつて百万の味方を得たるに等しい。之は主として、転向者群に言はれる事で、此の人々の動向が注目される折柄、彼女達の自粛こそ望ましく、其の転向が完璧のものであるならば、白眼視するを止め、適宜の指導方針をもつて之を迎へるべきであろう。(七四頁)

 

 つまり、「国民の半数なる婦人の指導問題」の解決にむけて、新たな婦人指導者として、阿部静枝(1899-1974)、高良富子(1896-1993)などの新鮮な若手や優秀な研究者を最前線に投入するとともに、もし、熟達した「転向者群」が、「批判的態度」への固執を捨てて「協力的態度」をとるならば、「適宜の指導方針をもつて」迎え入れる──これが提案なのである。

 

 結語

 「五、結語」として、まず、婦人雑誌に有能で真剣な執筆者が予想外に少ないことは、「婦人層」が「国民の半数」を占め、しかも、「其の絶対多数が言はゞ、烏合の衆に等しい事」からすれば、「甚だ遺憾である」と述べる。

 

之を要するに、雑誌を通じて読者たる婦人層に影響力を持つ有能なる執筆者は予想外に少なく、而かも之等の婦人群が筆を揃へて、「高度国防国家建設の急務」を説き、「八紘一宇、一億一心」を叫ぶが、其の底に懐疑の精神が一抹の暗流となつて流れ、積極性に乏しく、やゝもすれば、観念の固定に傾くの観あるは、其の執筆の対象となる婦人層が数的には国民の半数であり、而かも、其の絶対多数が言はゞ、烏合の衆に等しい事を考へれば、甚だ遺憾である。(七四-七五頁)

 

 こうした現状への対応策の一環として、雑誌社側が、指導者としての条件を具備した執筆者を探究することをあげている。なかでも、「読者が二百万を突破する」『主婦之友』『婦人倶楽部』という二大誌が、「日本婦人の指導者たるの価値と適格性を有する」執筆者を、「適材適所に配置し、真に高度国防国家建設の一役を買ふ」ことを求めている。

 その核心は、──そこまでは書いていないが──『婦人公論』『新女苑』『婦人朝日』『婦女界』等で活躍している(「転向者群」を含む)執筆者を、「適材適所」を考慮しながら、『主婦之友』『婦人倶楽部』等のより大きな媒体で活用することである。

 つまり、ここで問題になっているのは、「国民の半数」を占める「婦人層」(なかでも、「其の絶対多数」を占める「烏合の衆」)の組織化(「指導」)である。現状は「甚だ遺憾」であるが、組織化のための人材が払底している。時局を理解し、当局の意をくんで、大衆誌で論じてくれる人はいないのか、という訴えである。

 

 以上のように、「国家総力戦」「国民総動員」体制・「高度国防国家建設」をめざす国家(内閣情報局第一部)は、使えるものは底をさらってでも使うべく、在庫を見渡した。「其の転向が完璧のものであるならば」「転向者群」も歓迎である。なかでも、婦人雑誌部門における、優秀で説得力ある執筆者の決定的不足(「人無き婦人指導者群」)を嘆き、従来の女性指導者・女性言論人を、あらためて、女という資源(わけても「其の絶対多数」を占める「烏合の衆」)を動かすための人材のプールとみて、「適材適所」でこの任務に引き入れようとしたのである。

 ここからすると、この冊子は、(「高度国防国家建設」に向けて)婦人雑誌の脱皮を促すべく、情報局関係者、及び、おそらくは関係の雑誌社・編集者に配布したものと考えられる。つまり、(「高度国防国家建設」に向けて)執筆者を選び出して適材適所に配置するという作業を遂行できるよう、基礎資料として作成・配布したものとみられるのである。言い換えれば、内閣情報局による婦人雑誌に対する統制とは、婦人雑誌関係者に対する懇切丁寧な「指導」(「権威を背後に持つてゐる暗示的強制」)として行われているのである。

 なかでも、「等級A」とされる阿部静枝の箇所で、「農村の未婚女性は如何なる組織をもつて之に当るべきか?」という問いが立てられ、同じく「等級A」の高良富子の箇所で、「時局指導」、および、農村女性の組織化という問題(「農村婦人の問題」)で、高良を一番手に推していることが注目される。

 おそらく、この冊子は、日中戦争という(予想外の)長期戦に耐えうるだけの「内地」の組織化(「国防国家建設」)──なかでも(成人)女性、わけても農村での女性の組織化──をめざした「思想戦」の最前線であったのである。

 

2.「情報官」鈴木庫三の不在

 

 女の動員と鈴木庫三

 「情報局」で雑誌を担当するのは第二部第二課である。そこには、陸軍、海軍、内閣情報部にそれぞれ一名の「情報官」の割り当てがあり、陸軍からは鈴木庫三(くらぞう)(1894-1964)が来ている。すなわち、鈴木は、雑誌指導における、最強の勢力・陸軍の代表である。

 言論統制と鈴木の役割について研究した佐藤卓己氏によれば、鈴木は、1938年8月、すなわち、日中戦争勃発直後に陸軍新聞班に抜擢された思想戦のスペシャリストなのである[5]

 「国内思想戦」の貫徹(「国防国家建設」)をめざす鈴木は、近衛「新体制」(1940年7月成立の第二次近衛内閣)を機に、「婦人雑誌」と「婦人執筆者」への働きかけを強めた。『婦人朝日』(1940年10月号)には、座談会「新体制を語る──鈴木少佐を囲んで」(宮本百合子・金子しげり・深尾須磨子・桜木俊晃〔編集部〕、8月17日開催)、つづいて、『主婦之友』(同年12月号)には、座談会「国防国家建設と主婦の責任を語る」(鈴木庫三・壺井栄ほか)が掲載されている[6]

 『婦人朝日』の座談会で、鈴木は、(女性が結婚したら家庭に引っ込むのではなく)男女「共稼(ともかせぎ)」・夫婦「共稼」をすること、それができるような環境整備をする(工場に病院・託児所・授産所などを付設する)ことを力説している。「共稼」の方が、産業動員から見ても、人口対策から見ても合理的だと主張して、概して、同席した女性たちから好意的な反応を得ている。ただし、鈴木のこうした発言には、「(これは一個人の意見として主張してゐるのです。)」と付記されている。

 大晦日の鈴木の日記には、情報局の情報官となって「ここでまた雑誌や出版物を指導して思想戦の陣頭に立つことになつた。出版文化協会は余が主任になつて監督することになつた。日本の出版界を左右し同時に思想戦を指導する重任を負はされた」と記されている。[7]さらに、翌41年2月26日の情報局(第二部第二課)と中央公論社との懇談会の席では、鈴木(情報官)が嶋中雄作(社長)に向かって、「そういう中央公論社は、たゞいまからでもぶつつぶしてみせる!」と叫んだとされている[8]

 ところが、同年七月の『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』には、「宮本百合子」の項に、『婦人朝日』の座談会の記載がない(五三頁)。じつは、『新女苑』の箇所へ紛れ込んでおり、そして、そこには「鈴木少佐」の名前がない。なお、座談会に宮本とともに参加した「金子しげり」「深尾須磨子」の項には、『婦人朝日』の「座談」「新体制を語る」という記載がある(二二、四六頁)。また、『主婦之友』での座談会に関しては、「壺井栄」の項に座談会の記載がない(三二頁)。

 つまり、あの「宮本百合子」も含めた座談会まで組織した、出版界での実力者・鈴木の仕事がきちんと反映されてないのである。はたしてこれは偶然なのか、首を傾げざるを得ない。

 言い換えれば、この小冊子の刊行・配布には、「婦人雑誌」「婦人執筆者」への鈴木の影響力を削ぐという、隠されたもう一つの狙いがあった可能性がある。

 さらに、より具体的にいえば、「宮本百合子」を巻き込んだ『婦人朝日』(1940年10月号)の座談会での鈴木の発言が、同年7月に近衛内閣の陸軍大臣に就任した東条英機の目に留まり、その結果、鈴木が、「(これは一個人の意見として主張してゐるのです。)」と付記せざるを得なかった、しかも、それだけでは済まなかった、という可能性があるであろう。

 じつは、東条と鈴木では、下に見るように、「国家総力戦」における女性の動員形態が異なっていたのである。

 なお、鈴木は、1941年3月1日に中佐に昇進してもいる(佐藤前掲書、12頁)。

 また、佐藤氏は同書で、鈴木情報官解任策動は、海軍側が1941年末から始まり、翌年4月の『科学朝日』用紙問題の摘発を機に急速に動き出した(328頁)としている。だが、この小冊子の日付は「昭和十六年七月」であり、「調査」の元となる婦人指導者の時局指導懇談会の開催は5月13日であるから、鈴木排除の動きはこの頃から始まっていたと考えられる。換言すれば、佐藤氏の想定より早い、別系統の大きな動きがあったとみられるのである。

 

3.東条英機による鈴木(永田鉄山「国家総動員」構想の後継者)放逐の可能性

 

 鈴木は『婦人朝日』の座談会で「共稼」を力説しているが、じつは、「内地」の組織化=女性の動員(生産・次代再生産・準軍事)において、女も社会で働く・男女差を縮小する方向の「共稼」型にするのか、「女は家を守る」という大原則を堅持し(それと抵触しないように)「主婦」を動員するのかは、日本の「国体」──具体的には、家庭で妻が夫を支え、社会が男中心で(女が見えない形で)運営されるという意味での──に関わる重大な問題ととらえられていた。

 言い換えれば、「共稼」を積極的に推進する鈴木が、「家族制度」の破壊者という非難を浴びた可能性があるのである。(また、「宮本百合子」と同席し、「工場に病院・託児所・授産所などを付設する」ことで意気投合したように見える鈴木に、「アカ」というレッテルを貼ることは容易であったであろう。)

 

 「国家総力戦」(女の動員)と「家族制度」

 首相となった東条英機は、太平洋戦争の末期(1944年2月)になっても、「家族制度」を配慮せずに女性を「勤労部面に駆り立てる」ことに対して、「家族制度の破壊であり日本には許すべからざる点」という警告を発した(第84議会)。

 

家庭の婦人は子供や夫を活動させる為に朝三時半、四時半から起きて活動してゐる。これは日本の家族制度の最も美しい所であり、婦人が国家の生産増強の上に大なる貢献をなしてゐる事は見逃してはならない。故に斯ういふものを無理解に国家統制力を以て勤労部面に駆立てる事は家族制度の破壊であり日本には許すべからざる点であり、私はこの点を厳に戒める〔以下略〕[9]

 

 このように東条は、「女子徴用」(なかでも既婚女性「主婦」の労務動員)が戦争遂行上不可欠になっている時点でさえ、それを、「家族制度の破壊」と罵倒して憚らないのである。

 この前年には厚生大臣小泉親彦も同様の立場を表明している(第81議会)。

 

国民徴用令の規定によれば、女子も徴用し得る事は当然であり重要産業方面の女子を以て代替し得べき業種業態についての調査は既に出来て居るが、日本女子の特性といふもの、日本の家族制度に於ける女子の位置を考へてみる場合、今日に於いてはまだ女子を徴用する域に達してゐない[10]

 

 陸軍が、「女は家を守る」という大原則を押し出して──「日本の家族制度の最も美しい所」を発揮すべく──白い割烹着姿の「主婦」を街頭に動員するという方向に舵を切ってから、すでに久しい。すなわち、上海事変中の1932年3月、大阪港での出征兵士(増兵される第14師団〔宇都宮、高崎、水戸、松本〕)見送り活動から本格的に始まった国防婦人会は、33年5月には荒木貞夫陸相を招いて「関西本部第一回総会」を開き、会員数は4万人から、年末には15万人に激増した[11]。            

 このように陸軍は、白い割烹着に(「大日本国防婦人会」と大書された)斜め襷(だすき)を掛けた「主婦」による国防婦人会の活動を、1930年代中頃から仕切っていたのである。「斯ういふものを無理解に」、動員の合理性・国力の増大という観点から(のみ)「共稼」を推進しようとする鈴木は、明らかに異質だということである。

 ただし、こうした方向は、鈴木一人であったわけではない。「総力戦」──「国民の半数なる婦人」の動員がいよいよ問題となる──を念頭に、この方向での提起もなされていたのである。たとえば、日中戦争の勃発直前、平生(ひらお)釟(はち)三郎(さぶろう)(広田弘毅内閣の文部大臣、財界出身)は、「いまや家庭的にも社会的にも女は男の片棒を荷(にな)わなければならない」として、近代戦が総力戦であることを訴えて、女子高等教育の振興(大学への女子の入学、大学令による女子大学・女子高等学校の設置)などを提唱していた[12]

 すなわち、国力としての女性の潜在力が注目をあび、従来の、「男女の別」の線に添った限定的・補助的動員を越えて、女性も社会に本格的に参画させる必要があるという提起が支配層の一角から出ていたのである。それはまた、中国、なかでも八路軍の興隆に直面して一層現実味を帯びてきたであろう。他方、こうした方向は、硬く制度化された「男女の別」を切り崩す突破口を示すものとして、(強く制約された条件におかれた)女性指導者たちを惹きつけるものでもあった。こうして、「総力戦」の呼号は、(閉ざされた状況で)改革の可能性を垣間見せていたのである。

 だが、こうした道すら、容易には開けなかった、結局、抑えつけられたとみるべきであろう。東条らは、たとえ敵に勝つため・国力を増大するためであろうとも、家庭と社会(「内地」)における男の上位と既得権、女に対する絶対的・明示的・象徴的優位を譲り渡すことは拒否したのである。具体的には、既婚女性の労務動員よりも、「主婦」による、出征兵士の見送り・「英霊の出迎え」、千人針・慰問袋送りなどの方を、つまり、兵士の「日本精神」の鼓舞の方を優先したのである。「日本」なるものが、女の特定の姿(着物に割烹着の「主婦」)で、「皇軍兵士」の瞼に焼きついていたことを重視したともいえる。

 このように、東条らは、主婦を含む公式の「女子徴用」を最後の最後の手段とみなして、先送りしていた(ただし、男性労働力不在のなかで「勤労奉仕」は進行していたし、なかでも農業・農村の現状は、女性や老人を根こそぎ動員してからくも成り立つものであった)。換言すれば、軍事・軍隊はもちろん、工業・工場において、既婚女性の公的動員を極力避けて、(靖国神社を念頭においた)着物姿の「母」「妻」に専念させる方を優先したのである。それによって、戦略的には、「国体」(言い換えれば、彼等が日本的とみなす生活様式)を死守しようとし、同時に、戦術的には、超長期戦に動員している兵士の「後顧の憂い」を断とうとしたといえるであろう。結局、最後には、まず未婚女性の、そして、ついには──「本土決戦」を前にして──既婚女性の労務動員を含む「女子徴用」を公式に認めざるを得なくなるのであるが[13]

 なお、こうした東条らの“古い”姿勢は、軍人、ないしは、「統制派」であるからとは一概にはいえない。東条らが「統制派」の総帥と仰いだ軍人・永田鉄山は、その「国家総動員」構想において、女性労働力を動員するための託児所設立を提唱していたのである[14]。じつは、男女「共稼」・夫婦「共稼」の方が産業動員から見ても人口対策から見ても合理的だと主張して、それができるような環境整備をしよう(工場に病院・託児所・授産所などを付設する)と力説する鈴木の方が、この点において永田の「国家総動員」構想の後継者なのである。

 だが、鈴木は、1942年4月、つまり、この小冊子が刊行されて半年余り後に情報局から転出となった。続いて8月には、満州のハイラル(ソ連との国境地帯)へ配属になる。前線へ放逐されたとみて間違いはないであろう。理由は不明であるが、「国民の半数なる婦人」の動員に関する路線の違いは小さな問題ではなかったはずである。

 なお、鈴木自身は、「陸軍大学校出身者は横暴の限りをつくした。余は陸軍省、情報局等に奉職間、屡々意見を提出したが容れられず、却つて満州の奥地に転出させられた」と1946年元旦の日記で書いている(佐藤前掲書、382-383頁)。ちなみに、鈴木の日記は1941年と42年が欠落している。

 他方で、鈴木が、夫婦「共稼」路線に対する激しい反発に「無理解」・無防備であった一因に、茨城県真壁郡の貧しい農家(しかも養家)に育ち[15]、女性が働くのをごく当たり前に見てきたこと、また、「良妻賢母主義」による組織化(女学校・中学校その他)の外側で教育を受けたことが挙げられるであろう。そのうえ、「国家総力戦」における女性の動員は、あまりも当然であり、厚い壁を破ってもなんとしても実現すべき目標に見えたのであろう。

 

 以上のように、「情報局」設立後も抗争と混乱は続いた。言い換えれば、女性言論人・執筆者への抑圧と働きかけ(「思想戦」)は、複数の方向から競合的になされたのである。ただし、大局的には、産業(工業)への既婚女性の公的動員には、「家族制度」を掲げる東条らからの圧力がかかった。したがって、農村等での女性の極限的な動員も、「家族制度」を維持する方向で行なうよう──たとえ、女性が家から出て活動したとしても、「家族制度の破壊」を引き起こさないよう──留意されたのである[16]

                                                   (2017年10月記)

 

[1] 原本は、同志社大学図書館、国立国会図書館所蔵憲政資料(『新居善太郎文書』)に所蔵されている。これに関連する先行研究として、山口美代子「近代女性史料探訪──国立国会図書館所蔵憲政資料の中から──」(『参考書誌研究』第40号〔国立国会図書館、1991年11月〕)、内野光子「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか」(『ポトナム』2006年1-2)がある。前者は山川菊栄について触れ、後者は阿部静枝に関するものである。

[2]なお、「三、質的考察」の『婦人朝日』の項で、『婦人朝日』の報告の方が、ややジャーナリズム向けの文章だと観察されている。「公論と新女苑を第一等級の文化、総合雑誌と言ふなら、之に接近せんとするものに、婦人朝日が考へられる。〔中略〕唯、此の誌が、前記二誌と異なり、所謂雑誌と言ふよりも、やゝ娯楽誌の、言はゞ、智的婦人の娯楽誌と見られる故、同じ執筆者が書いても、やゝ調子を下げた観がある。くつろいで書いたと言つた感がある。例へば高良富子が同じ中央協力会議に出席した記事を公論と朝日に同時に書く場合にしても、朝日に於ては多少ジヤーナリズムを考慮した点が見られる。」(一一頁)。

[3]「中央協力会議に出席して──婦人の反省と協力を祈る」(『婦人公論』)と「新しい女性の生活を語る」(『婦女界』)は、『高良とみの生と著作』第5巻(ドメス出版、2002年)に収録されている。

[4] 『新女苑』(1941年4月号)に高良富子「生活の歓びを見つける行脚」が掲載されている。

[5]佐藤卓己『言論統制──情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中央公論新社、2004年)、230頁以下。

[6]同前第五章6を参照。

[7]同前、405頁。

[8]同前、5頁。

[9]『婦人問題研究所々報』(第8号・1944年2月29日)。鈴木裕子『フェミニズムと戦争──婦人運動家の戦争協力』(マルジュ社、1986年、新版1997年)、151頁。

[10]『婦人問題研究所々報』(第2号・1943年2月25日)。同上、150頁。

[11]藤井忠俊『国防婦人会──日の丸とカッポウ着』(岩波書店、1985年)、41、61頁。

[12]永原和子『近現代女性史論──家族・戦争・平和』(吉川弘文館、2012年)285-286頁、273-274頁を参照。それぞれ、1985年、1989年初出。

[13]女の動員形態の変化に伴って、『主婦之友』の表紙絵・口絵の女性像が変わっていく。若桑みどり『戦争がつくる女性像──第二次世界大戦下の日本女性動員の視覚的プロパガンダ』(筑摩書房、1995年)、なかでも228頁以下を参照。

[14]川田稔『昭和陸軍全史1──満州事変』(講談社、2014年)、280頁。

[15]前掲佐藤卓己『言論統制』第一章1を参照。

[16]本稿は、拙稿「内閣情報局による『婦人執筆者』の査定と山川菊栄──『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』(1941年7月)」(『法学志林』第110巻第2号、2012年10月)の前半部を改訂し、加筆したものである。

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