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大逆事件被告・管野須賀子の名誉回復とは何か

──問われなかった予審調書中のある供述

 

1.管野のある供述(第13回予審調書)

2.「武富に聴取書をとられた管野須賀子と大石誠之助ら紀州グループ」

3.像を結ばない「管野須賀子」──鬼検事・武富を弾劾(第1回検事聴取書)、予審判事・潮への供述(第13回予審調書)、「死出の道艸」

4.「関口の誤解」を正す

5.どうしてまかり通ってきたのか

 

 1910(明治43)年初夏に始まった「大逆」事件の捜査では、天皇の乗った馬車への爆弾投擲という共同謀議(共謀)をめぐって、取り調べ対象となった人間は数百から数千人にのぼるとみられる。

事件のただ一人の女性被告となった管野須賀子(スガ、1881-1911)の例をとると、巨額の罰金を払うメドが立たず、5月18日から換刑で東京監獄に入獄していた(労役場留置)[1]ところ、同月31日、無政府主義者の頭目とされた幸徳伝次郎(秋水)ら六人とともに、刑法第73条(大逆罪)で予審請求(起訴)されたのである。ただちに完全な接見通信禁止措置(予審中は弁護人を付けられないため弁護人の面会もない)がとられ、それがようやく解除されるのは公判開始の決定(11月9日)後である。したがって、五ヶ月余、獄中で孤立無援であったことになる。その間、検事の聴取と予審判事の訊問がしばしば行われ、検事聴取書が六回分、予審調書が十四回分作られた。

 12月10日、大審院でいよいよ公判が開始された。ただし、公判とは名ばかりで、開廷後ただちに傍聴人を追い出して、非公開のまま、証人申請も一切却下して、連続公判を強行した。そして、19日後には結審となったのである(同月29日)。

 翌年1月18日の判決言渡しでは、じつに被告26人中24人に死刑が下され、“まさか自分が”と思っていた被告たちを唖然とさせた。そのうえで、翌日、うち半数に対して恩赦による減刑(無期懲役)が言い渡され、残りの人々に対しては、判決から一週間も経ない24日に死刑が執行されたのである。ただし、管野だけは、なぜか、一日あとであった。

 管野須賀子はこうしてこの世から消されたのである。管野の名誉を回復する試みの一環として、管野の第13回予審調書(10月17日)にある管野のある供述をめぐり、いかなる問題があるのかを明らかにしたい。

 ちなみに、検事聴取書は、6月2日から10月5日まで六回分(検事は、武富済(わたる)が一回、小原直が二回、古賀行倫が一回、小山松吉が二回)、予審調書は、6月3日から10月27日まで十四回分(予審判事は、第二回まで原田鉱、以後は潮(うしお)恒太郎)ある。

 

 

1.管野のある供述(第13回予審調書)

 

 拙著『管野スガ再考──婦人矯風会から大逆事件へ』(2014年)の「あとがき」では、管野須賀子の第13回予審調書(予審判事潮恒太郎)に関連して、次のように述べた。

 

〔前略〕管野須賀子論を上梓するにあたっては、一つの関門があった。大逆事件における須賀子の供述書類、中でも第13回予審調書(1910年10月17日)である。そこには、幸徳が「宮下ト言フ人カ爆裂弾ヲ造ツテ 元首ヲ斃ス計画ヲシテ居ル又事ヲ挙ケル時ハ紀州ニモ熊本ニモ決死ノ士カ出来ルテアロウト申シマシタ」とある。「紀州ニモ熊本ニモ決死ノ士カ出来ルテアロウ」という一節は、平民社関係の事件に紀州や熊本在住の人間を巻き込む論理に他ならない。もし、須賀子が、このような──紀州の人間を巻き込むような──嘘の供述をしたとすれば、『牟婁新報』時代の自分を否定したに等しい。

つまり、どれほど原稿を書きためたとしても、この点について確信が持てなければ、管野須賀子論として発表するわけにはいかない、という問題に直面したのである。〔後略〕[2]

 

 このように、管野の第13回予審調書にある、幸徳が、「宮下ト言フ人カ爆裂弾ヲ造ツテ 元首ヲ斃ス計画ヲシテ居ル」、又、「事ヲ挙ケル時ハ紀州ニモ熊本ニモ決死ノ士カ出来ルテアロウ」、と申しました、という言葉が、概ね管野自身の供述と言えるのかは、管野須賀子論の核心にある、避けて通れない関門なのである。そして、「本書は、私なりに、この供述は須賀子の供述そのものではないという確信を得て、上梓したもの」(「あとがき」)である。

 管野のこの供述は、平民社(東京・巣鴨)関係の「爆裂弾事件」(「明科(あかしな)事件」)に、紀州や熊本在住の人間を巻き込むものであり、また、続く幸徳秋水に対する訊問で、幸徳を陥れる誘導尋問として使われたものである。

 だが、管見の限り、この供述は重大な問題であると論じた論者はいなかったようである。だが、この供述が大した問題でないとするならば、逆に、管野須賀子という人物はいったいどうとらえられて、どのように論じられていたのかが問題となるのである──そして、そこにどんな問題があるのかも。

 

 

2.「武富に聴取書をとられた管野須賀子と大石誠之助ら紀州グループ」

 

 この点に関連して、中村文雄『大逆事件と知識人──無罪の構図』(2009年)に、つぎのようにあることが注目される。なお、同氏は、『大逆事件と知識人』(1981年)、『大逆事件の全体像』(1997年)等で大逆事件関連の緻密な研究の先陣を切ってこられた方である。

 

〔前略〕検事の中でも特に武富は、恫喝検事として知られ、「ただの神経の持主ではない」[3]といわれ、武富に聴取書をとられた管野須賀子と大石誠之助ら紀州グループ六人は、恫喝は勿論、人間として扱われず陥されている[4]

 

 これは、1910年6月2日に開始された管野に対する聴取の最初が、鬼検事の名を轟かせる武富済によるものであったこと、他方、新宮(和歌山県)から引き立てられてきた大石もまた、新宮と東京で武富による聴取を受けたこと、さらに、武富は、田辺(和歌山県)に乗り込んで、他の五人の紀州関係者を恐怖に叩き込んで聴取したことに関わるものである。

 管見の限りでは、中村氏のこの見方への異議は見あたらない。言い換えれば、「武富に聴取書をとられた管野須賀子と大石誠之助ら紀州グループは、恫喝は勿論、人間として扱われず陥され」たという認識は、一人中村氏のものでなく、暗黙の前提とされてきた可能性があるのである。

 たしかに、「大逆事件」に抗する闘いを牽引してきた弁護士・森長英三郎氏の『祿亭大石誠之助』(1977年)を引証して、中村氏が次のようにまとめている点は、大筋において首肯できるものである。

 

◎大石誠之助は一九○八年十一月の上京で、大逆事件のフレーム・アップに巻きこまれたのである。

◎「十一月謀議」の調書は嘘(でっちあげ)である。

◎武富済検事が恫喝して、成石平四郎、崎久保誓一、高木顕明、峯尾節堂、成石勘三郎の紀州クループ五人を、苛酷に取り調べ、大逆事件に陥れたのである。

◎拷問の実態は、峯尾節堂の「我懺悔の一節」が事実を物語っている。

◎成石平四郎は、小林検事正、武富、高野兵太郎、細身検事らが集団で連日連夜、ウツツ責めをはじめ恫喝、詐術により、事実でない聴取書をつくられた。

◎いわゆる「十一月謀議」は、なんら具体性をもたない。

◎「十一月謀議」は「明科事件」との法律的関連はなにもない。〔後略〕[5]

 

 すなわち、事態のあらましはこうである。1908年11月、新宮の医師・大石誠之助は、幸徳秋水を診察しようと平民社(東京・巣鴨)を訪れた。同月、熊本からは『熊本評論』の松尾卯一太が、大阪からは『日本平民新聞』の森近運平が、それぞれ平民社を訪れていた。他方、翌年2月には、明科(長野県)の機械工・宮下太吉が平民社を訪れて、「爆裂弾」の話をもたらした。天皇の馬車に「爆裂弾」を投擲することが平民社の一部で話題となり、実行したいという動きが出てきた。1910年5月、宮下が明科で逮捕された(「明科事件」)。すると、これを機に、じつは、「決死の士」を地方で募るという「十一月謀議」(幸徳・大石・森近・松尾)が1908年11月(すなわち、一年半前)に平民社であったのだとして、地元に戻った大石や松尾から当時みやげ話を聞いた人々が、宮下らの「爆裂弾」の共同謀議に関わったとして、“芋づる式に”引き立てられたのである。そして、半年近くも拘束された挙げ句、その間に作られた検事聴取書・予審調書に基づいて、26人が大逆罪(刑法73条)で予審請求(起訴)されたのである。

 ただし、「武富に聴取書をとられた管野須賀子と大石誠之助ら紀州グループは〔中略〕人間として扱われず陥されている」と、「管野須賀子」を頭にまとめることは、率直にいって、初歩的な誤りである。「人間として扱われず」という点が同様であることは言うまでもないとしても、管野は、検事・武富済と対面した時、彼のそれまでの所業を弾劾して、「貴官にだけは申しませぬ」と言い渡し、その結果、武富による取り調べは一回限りで終わったのである。以上のように、「武富に聴取書をとられた管野須賀子と大石誠之助ら紀州グループ」とまとめること、すなわち、管野が武富に「陥され」たとみなすことは、管野に関しては初歩的な誤りであり、かつ、その名誉を著しく貶める深刻な誤りなのである。

 管野にとり、武富は、赤旗事件(1908年6月)、さらには、管野と幸徳が主に問われた『自由思想』事件(1909年5-7月)の担当検事だった旧知の人間である。管野が入獄して労役場で服役しているのも、『自由思想』の発行兼編輯人としての罰金に加え、発売後頒布という罪で当時としては異例の四百円が課され、それが払えないために他ならない(拙著156頁を参照)。第1回検事聴取書(1910年6月2日)によれば、管野は、「今ここで貴官を殺すことができれば殺します。爆裂弾か刃物をもっていましたら、決行します」と言い放ち、また、「畳の上でお死になることができれば、大変な幸福です。お母さまがおありだそうですから、おからだを大切になさいまし」と警告した。そして、「私は裁判官の中で貴官がいちばん憎いのです。その仇敵には何事も申しますまい。〔中略〕貴官にだけは申しませぬ」と言い渡したのである[6]

 むろん、私はここで、管野は鬼検事・武富に対して敢然と闘ったが、大石らはそうではなかった、と言いたいわけではない。新宮で医業をしていた大石は、6月3日、いきなり引き立てられ、船で運ばれて東京監獄に投獄された。いわば、不意打ちを食らって面食らった市民なのである。これに対して管野は、赤旗事件での入獄、さらに、孤立した平民社(東京・千駄ヶ谷)で『自由思想』発行をめぐる事務を一手に引き受けてきた人間である(拙著138-141頁を参照)。さらに、その結果課された巨額の罰金(同155-157頁を参照)に対して、死を覚悟で換刑での入獄を引き受けた人物なのである。そういう管野だからこそ、入獄中に新たな嫌疑を引っさげてやって来た武富に対して、「若シ私カ今回ノ事件ニ関係カアルトスルナラハ」死刑を引き受ける覚悟はあると宣言し、隠すつもりはないが「貴官丈ニハ申シマセヌ」(「大逆事件訴訟記録」、全集③196[7])と言い渡したと考えられるのである。個々人の人格や志の問題はおくとして(この点において、これらの人々の間にそれほど大きな違いがあったとは思われない)、大石と管野の立ち位置はこれほど異なるのである。

 にもかかわらず、「武富に聴取書をとられた管野須賀子と大石誠之助ら紀州グループ」と一括されてきたということは、事実として誤りであるばかりでなく、こうした管野の、瞠目すべき人間的強さ、志の高さ、また、市民一般としてではなく、帝国に公然と宣戦布告した社会運動家としての経験と蓄積が、まったく理解されて来なかったということなのである。

 

 

3.像を結ばない「管野須賀子」──鬼検事・武富を弾劾(第1回検事聴取書)、予審判事・潮への供述(第13回予審調書)、「死出の道艸」

 

 たしかに、他方では、武富に対する管野の敢然とした姿勢がしばしば指摘されてきた。だが、それは、あえていえば、荒畑寒村が『寒村自伝』(1947年等)で広めた、“妖婦”管野というイメージと共存する一つのエピソード以上のものではない。

そうでなければ、「宮下ト言フ人カ爆裂弾ヲ造ツテ 元首ヲ斃ス計画ヲシテ居ル又事ヲ挙ケル時ハ紀州ニモ熊本ニモ決死ノ士カ出来ルテアロウト申シマシタ」という供述の言葉を見て、おかしい、これが管野の言葉であるはずがないという声があがったはずなのである。また、これが本当に管野の供述だとするならば、管野はいったいいつ変節したのだろうか、という疑問が出たはずなのである(ちなみに、検事聴取書・予審調書を眺めてみても、管野が「陥され」たと特定できる時点はない)。

 そればかりではない。拙著でも述べたように(182-183頁)、管野に対する訊問を行った潮は、つづいて同日、幸徳に対して次のように問いただしているのである(幸徳伝次郎第13回予審調書、潮恒太郎)[8]

 

問 四十一年十二月中のある夜、管野が其方に、政府はわれわれ社会主義者に圧迫を加えるから、爆裂弾をつくって元首を斃し、さらに大仕掛けの革命を起したいと思うがどうであろうかと相談したところ、其方はそれに同意し、おいおいその計画をしよう、宮下という男も元首を斃す計画をしているし、いよいよ事を挙げるときは紀州にも熊本にも決死の士が出るであろうと申したそうだが、どうか。

答 どうも記憶がありません。もちろんその当時死を決して主義のために革命を起そうというようなことは折折話していたかも知れませんが、私と管野の間で具体的に相談したことはありません。また宮下のことは前に森近からきいていましたから、あるいは話のついでにしっかりした人物だ位のことは申したかも知れません。紀州にも熊本にもしっかりした同志がいるということを言ったかも知れませんが、いずれにしても具体的に相談したことはありません。

 

 ここからは、まず管野の供述があり、続いて潮がそれを手に幸徳に“カマをかけよう”としたが、幸徳は、「どうも記憶がありません」「具体的に相談したことはありません」とかわしたと読めるのである。

 だが、管野は、「死出の道艸(みちくさ)」(判決日から執行前日までの一週間の日誌)で、むしろ「検事の手によつて作られた陰謀」と言った方がよい、「軽焼煎餅か三文文士の小説見た様なもの」と明快に述べている(1月21日)。

 

 今回の事件は無政府主義者の陰謀といふよりも、寧ろ検事の手によつて作られた陰謀といふ方が適当である。公判廷にあらはれた七十三条の内容は、真相は驚くばかり馬鹿気たもので、其外観と実質の伴はない事、譬へば軽焼煎餅か三文文士の小説見た様なものであつた。検事の所謂幸徳直轄の下の陰謀予備、即ち幸徳、宮下、新村、古河、私、と此五人の陰謀の外は、総て煙の様な過去の座談を、強ゐて此事件に結びつけて了つたのである。(「死出の道艸」、全集②260)。

 

 つまり、管野は、「検事の所謂幸徳直轄の下の陰謀予備、即ち幸徳、宮下、新村、古河、私、と此五人の陰謀」を認めたうえで、同時に、それ以外の人間に関しては、「総て煙の様な過去の座談を、強ゐて此事件に結びつけて了つた」と観ているのである。

 管野の「死出の道艸」は賞賛されてきたものである。とするならば、第13回予審調書にある管野の供述(なかでも、幸徳は「〔前略〕紀州ニモ熊本ニモ決死ノ士カ出来ルテアロウト申シマシタ」と、その直前にある、「幸徳ハ私ノ申出ヲ喜ヒ是非遣ロウト言ヒマシタ」等の二つの供述)ははたして本当なのかという声が出て然るべきだったのである。もしこの供述が事実だとするならば、鬼検事・武富に対して敢然と対決した管野(第1回検事聴取書)は、いつの間にやら変節し、幸徳は「事ヲ挙ケル時ハ紀州ニモ熊本ニモ決死ノ士カ出来ルテアロウト申シマシタ」と潮に対して供述した(第13回予審調書)が、さらに、処刑を前にした「死出の道艸」では、むしろ「検事の手によつて作られた陰謀」だと喝破した、ということになるのである。

 それだけではない。管野のこの言葉が腑に落ちない・管野らしくないとするならば、ひょっとしたら、供述書中のこの箇所は、管野の目が届かないところや気づきようがないところで書き加えられた、つまり、この予審調書は捏造されているのではないか、少なくとも管野の供述内容そのものとはいえないのではないかという疑問が当然出て然るべきだったのである。

 

 

4.「関口の誤解」を正す

 

 管野の第13回予審調書に対するこうした声、疑問がこれまで聞かれなかったとするならば、一つの可能性として、管野はすでに「陥され」ているのであり、この予審調書中の言葉(「宮下ト言フ人カ爆裂弾ヲ造ツテ 元首ヲ斃ス計画ヲシテ居ル又事ヲ挙ケル時ハ紀州ニモ熊本ニモ決死ノ士カ出来ルテアロウト申シマシタ」)も、取り上げるほどのことではないと思われていたのではないかという疑いが起こる。

 この点で参考になるのが、三本弘乗氏の次の言葉である。三本氏は、管野須賀子研究会編『管野須賀子と大逆事件──自由・平等・平和を求めた人びと』(せせらぎ出版、2016年)中で、「関口すみ子の『管野スガ再考』にみる管野須賀子論」なる項目を立てて、拙著について論評している(同書131-136頁)。そこで、「関口の誤解によると思われるので、取り上げておきたい」と前置きしたうえで、冒頭にあげた拙著の「あとがき」を引用する。その際、「関口が述べている「この記(ママ)述は須賀子の供述そのものではないという確信を得て……」の記述について、確信の根拠について知りたいところである」と述べながら、次のように言う。

 

供述調書でみる限りでは、関口が取り上げた、前述の幸徳が話したという「事をあげるときは紀州にも熊本にも決死の士が出来るであろうとの話」を、最初に供述したのは、関口が指摘している管野の一○月一七日の予審調書の供述ではなく〔中略〕それより四ヵ月前の、六月八日の大石誠之助に対する武富検事による第二回の聴取書での供述によるものであることを明らかにしておきたい。なお、この供述について大石は、引致されて疲労困憊の中で供述し、真意ではなかったと後日の予審調書で取り消している(⑮七五頁)。

 

 三本氏の文章を何度読み返しても、いったい何が言いたいのか(結論)が明らかでなく、困惑するほかない。とはいえ、三本氏の言葉は、「武富に聴取書をとられた管野須賀子と大石誠之助ら紀州グループ」という先入観を前提にすれば、それなりに意味が通じなくもないのである。

 つまり、管野はすでに大石らとともに鬼検事・武富に人間として扱われず陥されている、関口は誤解していると思われるが、この供述を最初にしたのは大石に他ならない(ただし、大石自身は、不当な圧迫下での供述であったとして後日取り消している)、つまり、さらに四ヶ月して予審判事・潮が管野にもこの供述をさせたということにすぎないということである。

 むろん、これが私の誤解であることを祈りたい。とはいえ、この問題を曖昧にしたままでは管野の名誉回復はあり得ないから、「管野須賀子を顕彰し名誉回復を求める会」代表世話人を名乗る同氏には、第13回予審調書中の管野のこの供述をどうとらえるのか、明快な見解を望みたい。

 なお、管野の供述そのものではないという「確信の根拠について知りたいところである」という三本氏の要望に応えれば、すでに拙著「あとがき」で次のように述べている。

 

言い換えれば、本書は、私なりに、この供述は須賀子の供述そのものではないという確信を得て、上梓したものである。その理由は、まず、第一に、須賀子自身が、判決を、五人の陰謀の外は「総て煙の様な過去の座談を、強ゐて此事件に結びつけて了つた」と書き残している(「死出の道艸」1月21日)ことであり、また、第二に、裁判について書かれていたはずの元日からの日記──須賀子はくれぐれも見て欲しいと多方面に書き送っていた──が消えていること、同様に、手元にあった「前の日記」も消えていることである。つまり、饒舌な供述書類がある一方で、須賀子の声は「死出の道艸」(判決日から執行前日までの一週間の日誌)を除けば消えているのである。

 

 一言で言えば、第13回予審調書にある管野の供述は、「死出の道艸」に遺された管野本人の言葉と(また、武富に対する毅然とした態度とも)相容れないのである。そこから私は、「この供述は須賀子の供述そのものではない」という確信を持ったのである。

 しかも、他方では、管野の手元にあった「前の日記」、及び、管野がくれぐれも見てほしいと言い残した元日からの日記(「獄中日記のやうな感想録」)が消えている(拙著176-178、185-186頁を参照)。「前の日記」と「獄中日記のやうな感想録」には、予審や公判に対する管野の感想が書かれていたはずである。

 ちなみに、予審調書類に危機感をもった幸徳秋水は、弁護士の磯部四郎・花井卓蔵・今村力三郎に宛てた書簡(1910年12月18日付)で、「予審の調べに会ったことのないものは、予審は大体の下調べだと思ってさほど重要と感じない、ことに調書の文字、一字一句が、ほとんど法律事項の文字のように確定してしまうものとは思わないで、いずれ公判があるのだからその時に訂正すればいいくらいで、強(しい)て争わずに捨ておくのが多いと思います」と伝えている[9]

 管野須賀子は、すでに赤旗事件で公判二日目(1908年8月22日)に、証人審問に先立って特に発言を求め、予審調書は事実無根だと次のように弾劾している(拙著130頁を参照)。

 

予審調書には全く跡方もなき事を羅列せり。然も其事たるや到底、病身の自分には出来難き犯罪事項なり。自分が社会主義者なるの故を以て罪の裁断を受くるならば、甘んじて受くべし。然れども、巡査の非法行為を蔽はんが為に、犯罪を捏造して入獄を強ゐんとならば断じて堪ゆ可らず(「赤旗事件公判筆記」、『熊本評論』第30号、9月5日)

 

 ここからすると、「前の日記」と「獄中日記のやうな感想録」には、「犯罪を捏造」する予審調書類に対する弾劾があった可能性がある。

 言い換えれば、この二つの文書を世に出さないことで、処刑した人間の“口を封じた”のではないかという疑いも払拭できないのである。(ちなみに、公判廷での問答を記録した公判始末書は、刑事訴訟法で保存が義務づけられていたにもかかわらず、行方不明とされている。)

 なお、付言すれば、「死出の道艸」をはじめとする一連の文書は、米軍の本土占領を前に、司法省構内の空地で焼却中の書類の山から、からくも救出されたと語られている[10]。「大逆事件」のデッチ上げを主導した平沼騏一郎(当時司法省民刑局長。大審院検事を兼任し、検事総長松室致に代わって全体を指揮した)がA級戦犯に指定され、巣鴨プリズンに収監されることになる例に明らかなように、一連の文書は、三十五年前の裁判の実相を当事者が証言するものであるに止まらず、存命中の司法関係者の運命に直接影響しかねないものであったのである。

 

 

5.どうしてまかり通ってきたのか

 

 さて、最後に、「武富に聴取書をとられた管野須賀子と大石誠之助ら紀州グループ」という明白な誤りが、どうして今までまかり通ってきたのかについて考えてみたい。

 端的にいえば、管野の言葉はきちんと読まれてこなかったのである。

 管野の声はそこにあるのに、聴き取られなかった、読めばわかるのに(しかも、読んでいるのに)読まれなかったということである。言い換えれば、真剣な検討の対象とされてこなかったのである。(ちなみに、森長英三郎氏は、前掲『祿亭大石誠之助』中の「大逆事件と大石誠之助(一)(二)」において、「十一月謀議」及び「決死の士」に関する被告らの検事聴取書・予審調書・公判廷での供述[11]を詳細に比較検討しているが、管野の予審調書等への言及は、第13回を含めて一切ない。)

 それほど強く、荒畑寒村の描いた“妖婦”管野像は、大逆事件という、大がかりなフレーム・アップと支離滅裂で残虐な大弾圧と対決しようとした人々をも捕らえていたということでもある。

 かつて管野の若き夫であった荒畑は、敗戦・占領期に発表した『寒村自伝』(1947年)で、管野の「身辺にはつねに一種の娼婦的な艶冶な雰囲気がただよつていた」と描いた。さらに、『寒村自伝』上巻(岩波書店〔文庫〕、1975年)では、「管野という女はちっとも美人じゃないのだが、それでいてどこかに男をトロリとさせるような魅力をもっている」というある人の言葉を紹介し、さらに、「後で知ったようなその道のヴェテランであった彼女が、恋愛の初心者に過ぎない一少年の感情を転換させる如きは、赤ん坊の手をねじるよりも容易であったに違いない」と述べ、また、管野の人生は、「放縦淫逸な生活に沈湎」し、「さまざまな男と浮名を流す」ものであったと描いたのである(拙著20-25頁を参照)。

 荒畑作成の管野像は、一言で言えば、男を蕩かす“妖婦”である。この幻影によって、管野に好奇の目が注がれるとともに、他方では、管野から目が背けられたのである。したがって、(管野の“沈黙”の一方で)荒畑が振りまいた偏見・先入観を一掃し、それが引き起こした打撃分を回復する必要があるのである。

 

 以上のように、管野須賀子の名誉回復にあたっては、第13回予審調書をはじめ、捏造が疑われる検事聴取書・予審調書をめぐる問題、行方不明とされている公判始末書の問題、同じく、消えた「前の日記」「獄中日記のやうな感想録」の問題等がある。

 さらに、管野自身は、巻き込まれた人々を容疑から解放するために、平民社関係の「陰謀」を認めることにしたと考えられるが、すでに刑法73条(大逆罪)が戦後体制と相容れず削除されている(1947年10月)以上、管野須賀子の名誉回復とは、大逆罪からの完全解放、言い換えれば、大逆事件被告に対する国家による謝罪を視野に入れるものである必要がある。

                                                        (2017年8月記)

 

 

[1] 罰金を払えない場合に替わりに入獄して服役する。

[2] 拙著『管野スガ再考──婦人矯風会から大逆事件へ』(白澤社、2014年)、247-248頁。

[3] 森長英三郎『禄亭大石誠之助』(岩波書店 一九七七年一○月)二七五頁〔原注〕。

[4] 中村文雄『大逆事件と知識人──無罪の構図』(論創社、2009年)、360頁。

[5] 同前、xii頁。

[6]塩田庄兵衛・渡辺順三編『秘録・大逆事件』(春秋社、1959年)上、102頁。

[7]清水卯之助編『管野須賀子全集』(弘隆社、1979-1986年)の、たとえば、第一巻を「全集①」と略記し、その後に頁数を記す。

[8]前掲『秘録・大逆事件』下、39頁。

[9]なお、幸徳は、「検事の聞取書なるものは、何を書いてあるかしれたものではありません」、また、予審判事の「調書は速記でなくて、一とおり被告の陳述を聞いた後で、判事の考えでこれを取捨して問答の文章を作るのですから、申立の大部分が脱することもあれば、言わない言葉が挿入されることもあります」としたうえで、こう続けている。

「獄中から三弁護人宛の陳弁書」、『幸徳秋水全集』第六巻所収。

[10]大逆事件の真相究明を先導した神崎清の『実録幸徳秋水』(読売新聞社、1971年)によれば、「死出の道艸」は、雑誌『真相』を発行していた人民社社長・佐和慶太郎のもとに一括して持ち込まれて、買い取られたもののうちの一つである(同書511頁)。他に、幸徳秋水の「死刑の前」、森近運平の「回顧三十年」、大石誠之助の「獄中にて聖書を読んだ感想」、奥宮健之の「法廷ニオケル弁論概略」等があった。米軍の本土占領を前に、司法省構内の空地で焼却中の書類の山から、からくも救出されたと『実録』は描く(拙著124頁を参照)。

[11] 公判始末書が行方不明であるため、弁護人今村力三郎の「公判ノート」(「今村ノート」)や同平出修の「大逆事件特別法廷覚書」(「平出覚書」)を手掛かりに推測することになる。

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